ママンの眠り

 11月7日、ほぼひと月前に老人ホームに入っていた97歳の母が逝った。大木が倒れるようにゆっくりと眠りの中で去った。2週間前には握手しながら「じゃあね」というと、「車で帰るのでしょ、きをつけてね。」といつものあいさつで別れた。1週間ほど前ではあまり食事をとらず、水もほとんど飲まない状態になっていたが、それでも「水を飲まなきゃね。」といっていたので生きようとする気力を感じていた。その後、だんだんと食事も水ものまなくなって5日後、永久の眠りについた。

 カミュの『異邦人』ではないが、根っこが失われたような浮遊感がある。昔の人は「あの世」を現実の世界の延長と考えていたから、この2つの世界がつながり自分と先祖がつながる安定した世界があった(祖霊信仰)。現代では「あの世」など信じる根拠など全く失われているため根っこのない浮遊感だけが残る結果となっている。でもよくよく考えてみると生命は誕生して以来綿々とつながっており、親子のつながりもこの流れの一端である。「あの世」「この世」のつながりを想定しなくても現在あるすべてが自分の存在の根拠である。だからこの浮遊感から現在を否定していく「異邦人」になる必然性もなく、この浮遊感を超えていくという課題は、個々人の現在へのかかわりに帰される問題でもある。

 この喪失感は詩心のある人は詩にすることもできるのだろうが私にはその才能がない。若いころ読んだ「森川義信詩集」の一篇で代用するほかない。

いつものように、「じゃあね」

「人間性とは何か」懇談会を終えて

 今回の懇談会で違和感を感じていました。何が違和感だったのかを考えてみますと、二つほどあります。一つには個々の人たちは自分の問題を抱えており、その解決の手がかりを得ようとしているにもかかわらず、私の考えてきたことは問題全体をどのようにとらえて、全体としてどのように解決したらいいのかということで、具体性に欠けていることだと思います。私はもともと個々の問題を解決しても、全体としての解決にはならないと思っていますし、それに関する専門的な知識もありません。これが違和感の原因だと思います。もう一つは、正しいことを言いすぎてるということです。正しいとは現時点で正しいということで、常識の範囲内であまりあたりさわりのないところで、コミュニケーションを行っている、ということです。おそらくそこで人間性の本質を見極めることはできないとおもいます。障害者の苦しみや喜び、生活の上でのなやみや笑、すべて個人・個人が経験したことを個人個人が対象化し、考え悩み、その上で発せられた(自分に向けられた)言葉が重要です。そのことが人間の闇(無意識)と連動しているからです。その無意識の領域がすぐれた文学などには表れています。私(たち)はこの無意識に共鳴するのです。無意識は胎児~2歳までに形成されます。この時期が脳と内臓が連携していく時期にあたります。この時期は母親との接触が中心の世界になります。ですから母親の快・不快が、子供の内臓の快・不快と連動し、子供の脳に快・不快の構造が形成されます。
 人間と動物を区別するとき、いろいろな違いが挙げられます。そのなかで、最も重要なのは、人間は分節を発生させることができたことと、特定の一人を愛情の対象にできたことです。我々が言葉を話すのは自然に感じますが、赤ちゃんを見ればわかりますが、「葉っぱ」という言葉を話すときに、ものすごくきつそうな顔をしながら発しています。このとき、呼吸を止めることができないと分節は発生できないのです。呼吸を止めるということは生死にかかわることです。これは凄まじい集中力を必要とします。恋愛も一人に集中する力です。なぜ、集中できるようになったかは不明ですが、内臓(肺)の働きを脳が抑制することで達成できるようになったことは明白です。このことが元来、動物の遠吠えのような内臓(心)の叫びが脳の抑制で言葉に進化したとおもわれます。ですから、言葉には本当(心)のことを内在化させる作用があるのだとおもいます。
 これが人間の本質を規定しているとすると、日々我々は嘘をついたり、気取ったり、飾ったりすることはまさに人間性というほかありません。たまには抑制をゆるめて、動物的になったり、植物的になったりして、こころを開放することも必要なのかもしれません。

「人間性とは何か」への回答

メールで質問があった。
普通生物体は生き延びる様に生きますよね?
人間は、原発とか核戦争とか、1歩間違えば、破滅するかもしれないようなものを何故、作っていくのでしょう?そう言うことも、人間性に含まれますか?

回答
 人間性の定義はむずかしいのですが、言えることは人間の行うことすべてが人間性に含まれると思います。ただ、人間性には、植物性、動物性もすべてふくまれています。あるときは植物性が主体的にあらわれたり、あるときは動物性があらわれたり、あるときは人間の原始的共同性があらわれたり、一人の人を愛するという恋愛感情をもったり、国家や宗教などの共同性に身を置いてしまって戦争を起こすことがすべて人間性です。ただこれらが並列的でもありますが、徐々に段階(歴史)的につみ重ねてきた部分もあります。原発は実際は科学技術の問題です。今発見されている素粒子などもある意味では危険なものです。科学が発展すると危険性は格段に増えていきます。科学技術の応用には危険性が伴いますが、発展を止めることはできません。注意深く取り扱う必要があります。一方、戦争や核爆弾の開発、軍事費用の増大など戦争につながる行為は国家や宗教など共同性の問題です。(主体的か非主体的かを問わず)戦争は個人が共同性に巻き込まれた争いです。国家や宗教を越えて個人が主体になる情況が見えてきていません。先進国でさえ、逆戻りして国家主義的になってきています。でも人間性は最終的には個人を主体とした自由・平等・博愛を理想とした社会を目指しているのではないでしょうか。

Sの死と「死の宣告」

 我が友、Sさんが2月14日逝去されました。冥福を祈ります。

 2月19日通夜に行ってきました。遺族の方の話では、2年程前にがんが判明し、余命2年半と宣告されたようです。しかし、本人は「自己の死」を了解できず、苦悩し、カウンセリングを受けていたそうです。40年ほど前、私の姉が亡くなりました。姉は胃癌から骨髄に転移し、「あと長くて半年」と医師に宣告されました。当時の医師は本人に「死の宣告」を行いませんでした。医師が宣告の苦痛を避けているともいえますが、「死」の宣告は家族の選択で、ということが一般的でした母がいないとき姉に「本当のことを話して」といわれましたが、言葉に詰まって、結局本当(医師の宣告が本当かどうかなどわかりません。)のことを言えませんでした。でも、姉はそれ以降一度も「本当のこと」を問いただすことはなく、母の将来を気遣って自分が死んだ場合に年金はもらえるから心配ないということをいっていました。姉は感受性が豊かな人でしたから、弱っていく身体の中ですべてを察知していたように思います。

 元来「死」は本人以外経験できないものです。私たちの「死」の了解は「他者の死」の了解にすぎません。「自己の死」を宣告されても経験できないものを了解することは難しく思われます。今では本人への「宣告」は普通になっていますが、それが本当に意味あることなのか疑問になります。おそらく、「宣告」など受けても受けなくても本人は「死」が近づいてきていることを自己の身体との対話の中で、ぼんやりと感じているように思われます。了解とは脳と内臓とのコミュニケーションによる調和で、「腑に落ちる」ことです。これには時間がかかるものと考えられます。内臓の崩壊が始まったばかりの時にはまだ内臓は「死」を感覚できません。脳は客観的に「他人の死」を「自己の死」と同値しようとしますが、内臓が納得しません。徐々に内臓の崩壊が進むと内臓感覚も不快感を増大させます。そして、不快感はおぼろげながら「自己の死」を了解せざるをえない情況に至る、と思われます。

 かなりしんどい話ですが、家族や近親者ができることといったら、「宣告」を受けとり、死にゆく者の「死」を了解し、伝えるかどうかを判断し、すべてを飲み込み、支える覚悟で対処する他なく、できたとしても、「自己の死」の苦悩をほんの少し緩和させるだけなのかもしれません。

無能力な内科医

5/14の週は1週間ビッシリ予定が詰まっていた。この歳になると余裕のない予定は、その後の修復は難しくなるようだ。翌週の月曜日に体がだるく、少し熱があるようだったが、大したことはないと思っていたら、水曜日の夕方から少し咳き込むようになって、夜には咳で眠らない状態に至った。それ以降、今日まで2週間、同じ状態が続いている。病院の内科で気管支炎ということで、咳止め薬、去痰薬を処方された。症状が出てからは、1週間に2日ほど行っていたリハビリを中止し、週に2日の休むことのできない仕事だけに予定を絞っている。随分体力がなくなってきたものだ。

社会を見れば、安倍自民党は戦前の日本を理想の国家として突っ走っているし、イギリスでは頭の中の幻想に縛られた原理主義者や国家主義者が自己の正当性を主張し、一般市民を犠牲にしている。なんとも物騒な世の中になったものだ。

中断

しばらく投稿が中断してしまった。咳が3か月ほど止まらず、2か月目に内科の医者を見限って耳鼻咽喉科に行ってみたら、夜の咳は止まった。その後1か月ほど耳鼻咽喉科にかよって、ほぼ咳が止まり、治ったようだ。内科というのは一体何なんだ、と思ってしまう。「熱が出て、咳が止まらない」といえば、調べもせずに「風邪ですね」といって、解熱剤と咳止めを処方する。なんという無能力か、あきれてものが言えない。本当は内科は総合診療科であってほしいというのは、病院に行く患者の本心だ。素人の患者に客観的に判断して、その症状の原因をつきとめ、わかりやすく説明するのが内科医の責務ではないのか、といっても直接言えるわけもなく、弱い患者の泣き言にすぎない。

「お金」の本質と資本主義のマジック

アベノマジックを考える前に、基礎的な概念を学び直そうと思った。Nから問われた日銀の政策と三菱UFJ銀行の仮想通貨導入問題は結局「お金」の話で、「お金」とは何かを押さえてからアベノマジックを考えることにした。「お金」の本質についてはやはりマルクスの『資本論』が群を抜いていると思われる。『資本論』は大学の時から2度読んで途中で挫折したが、今回は「お金」を中心に3度目の挑戦となる。

『資本論』は「社会的な富はすべて商品として現れている。」として、この富の構成要素から分析が始まっている。そして「商品は、まず第一に何らかの有償性、つまり使用価値をもつものである。その使用価値は商品の持つ性質によって規定される。」としている。「商品の持つ性質」とは化学的組成や形状さらにその商品をつくる労働の違いによるものである。商品は単なる使用価値だけでなく、「もう一つ使用価値を素材的な担い手とする交換価値をもつという側面」をもっている。そして、交換価値は量的な関係として現れる。物々交換で考えると、この量的な関係は交換比率として現れる。この交換比率は需要と供給の関係で現象として多少の変動はあっても、ある程度の水準にある。マルクスは「20エレの亜麻布は1着の上着に値する」を例として交換における価値を考察している。(エレとは、布地などの寸法を測るための単位。亜麻布とはリンネルとも呼ばれ、亜麻の繊維を原料とした織物の総称。プロイセンでは約67センチ、バイエルンでは約83センチ)

20エレの亜麻布=1着の上着

この式は価値方程式と呼ばれ、左辺(価値を表現するもの)は相対的価値形態、右辺(価値表現の材料)は等価形態とマルクスは呼んだ。今、使用価値から見た場合、亜麻布と上着は違うものだから等号で結びつけることができない。とすれば、等しいのは交換価値ということになる。違うものが同じであるということは、具象(使用価値)的なものを捨象(抽象)していって、はじめて等しくなる概念が生まれる。だから、交換価値とは使用価値からの「抽象」を意味する。この「抽象」はいずれ貨幣へと進化する。貨幣が生まれると交換は貨幣を介した交換へと変化していった。

20エレの亜麻布=10ポンド=1着の上着=10ポンド=小麦0.5クォータ
W(もの)-G(お金)-W’(もの)ーG-W”

しかし、当初貨幣は「抽象」によって種々の「もの」と交換は可能だが、単なる物々交換の代用物でしかなかった。しかし、貨幣の流通が増加し、資本主義になると、それまでの使用価値の交換を主体とする取引に加え、交換価値そのものを取引する形態が生じた。

G(お金)-W(もの)-G'(お金)

商品取引を貨幣から始めると10ポンド(G)が最終的に10ポンド(G’)と交換しても意味がない。10ポンドが20ポンドになる、といったように貨幣が増加しないと交換は意味をもたない。これが資本主義のマジックといわれるものだ。なぜ10ポンドが20ポンドになるのか。マルクスは次のように分析する。Gすなわち資本は商品(W)を造るために、資財・機材・人に分配される。そこで、資本から資源・機材を購入し、人を雇用し賃金を支払う。

お金(G1)-資材(W1)
お金(G2)-機材(W2)
お金(G3)-雇用(W3)
G(=G1+G2+G3)ーW(=W1+W2+W3)

結局、この交換は、等価交換である。そして、この商品を売ると

GーWーG’(=G+α)

資本主義のマジックでαだけ「お金」が増加する。資本主義ではこのシステムが際限なく繰り返される。資材や資源はその使用価値を求めて等価交換したものである。ところで人件費、労働の使用価値とは何だろう。労働の使用価値は同じような仕事を継続的に続けることである。すなわち、労働し、食事し、家に帰ってテレビを見て、風呂に入ってリラックスして睡眠をとり翌日会社に行って再び労働をする。自己再生産する費用が労働の使用価値である。等価交換を基本として考えた場合、αは労働から生じた価値と考える他ない。このαは剰余価値と呼ばれる。現在ではこの考え方は資本主義にとって都合が悪いから、表面上、剰余価値は利潤・配当あるいは地代・利子という形態として、賃金とあわせて「所得」という総称で概念化され本質が隠されることになる。実際には、余剰価値は労働者によって作り出された価値であり、この剰余価値を雇用費用に加えたもの(W3+α)が労働の価値である。そう考えて定式化すると。資本主義のマジックは余剰価値を曖昧にして表面上見えにくくしたマジックだった。

お金(G1)-資材(W1)
お金(G2)-機材(W2)
お金(G3)-雇用(W3
支出:G-W(=W1+W2+W
収入:      W’(=W1+W2+W+α))ーG’(=G+α)

このマジックは、現在ではじゃぶじゃぶな「お金」を使った株や不動産の投機に使われミニ・バブルの様相を呈している。抽象化された「お金」は「お金」を求めて永遠に増え続けようとする。

千代田図書館へ~散歩「学生時代の思い出」

アベノマジックの続編はまだ、論理構成が完了していないのでしばらくかかりそうだ。とりあえず、連休中は足を鍛えることを目的として散歩することにした。

今日はつれあいと千代田図書館へむかった。往きに水道橋をとおってしばらく進むと、なつかしい「~白十字」という看板にであった。きれいな教会風建物になって面影もないが、この付近にあったはずだから、おそらく「白十字」の進化形なのだろう。思い出すと、学生時代に神田の古本屋街をぶらぶらして神保町付近の喫茶店「さぼ~る」や神保町と水道橋の中ほどにある「白十字」という喫茶店で休んだものだ。「~白十字」からさらに進むと、何度か吉本隆明の「試行」を買った「文泉堂」があったはずだが、1Fは「てもみん」になっていて、3Fに「文泉堂出版」という看板があった。これも本屋の進化形なのかもしれない。神保町の交差点を右に曲がって、しばらく進み高速道路がある。この下をくぐり、10mほど進んで、「カフェ・ド・クリエ」を左折すると、細い路地があって、この左手に「九段下寿司政」がある。ここの「こはだ」は絶品だが高いから、ここを素通りして右・左が工事中の防護壁に囲まれた路地を進むと、目の前が開け、九段会館の前に出る。ここを左折して数十メートルで千代田区役所に到着する。この9・10Fが千代田区立図書館だ。自宅からほぼ2kmの距離にある。図書館で雑誌を見ながら休んでトイレに行こうとしたら、吉本隆明展をやっていた。やさしさと厳しさが混在した見慣れた写真が数枚飾られていた。大げさに~展などというには恥ずかしいほどのものだったが、なつかしい思い出にふれたように思われた。今回の散歩は思いがけず、「学生時代の思い出」がテーマだったようだ。

アベノマジック(1)

友人Nからメールをもらった。日銀の政策と三菱UFJ銀行の仮想通貨導入にかんする問題点と疑問であった。それまでは日銀の金融政策は何をやっても景気に影響を与えることはできないと考えていたため、あまり深く考えていなかった。なぜそう考えていたかというと、多くの人はこれ以上消費を増やさなくても十分生活でき、安定しているからだ。このことをもう少し考えてみる。景気の一つの指標としてGDP(分配面)をみると、GDPの60~70%が消費で大きな位置を占める。だから景気を良くするということは、この消費を増やすような政策が必要になる。ところで、消費は2つからなるといわれる。一つは生活するうえで最低限必要な消費であって、個々人の抑制が困難な消費で基礎的消費とよばれ、もう一つは被服関係や旅行などの趣味・嗜好性が高い消費であって、個々人が少し抑えようとすれば抑えられる消費で選択的消費とよばれるものである。このため、政策はこの選択的消費を増やすようなものでなければ、GDPも景気も上向かない。GDPの分配面をわかりやすくいえば、(消費+貯蓄+税金)となる。一般市民からみると、(所得ー税金)が可処分所得だから、可処分所得のうち、消費を抑えれば、貯蓄が増える。ところで、選択的消費は先進国において消費の40%を超えるものとなっている。このため、金利を下げて、お金をじゃぶじゃぶにしても景気が良くならないのは、少しでも不安があればその選択的消費を抑えて貯蓄に回しても生活には特段問題はないためだ。だから安倍政権が誕生したとき、アベノミクスで金利を低く抑え「お金」を借りやすくし、一方で、物価を上げインフレに誘導し、企業利益や賃金の引き上げによって所得を増やしGDPを増やすといったマジックを行なおうとした政策は、多少所得が増えても物価も上がり、大した変化などないから、選択的消費を増やす行動に移りえない。図―1の消費に占める選択的消費をみると、2011年の震災やオリンピック需要によって、じゃぶじゃぶにした「お金」を復興や施設建設などに使うことができるようになったため、若干景気が上向いたように感じ、2011年~2014年は選択的消費は緩やかに増えたように見える。しかし、2014年以降は消費税増税やアベノマジックの効果で企業が商品価格を上げたため物価が上昇し、これに対応した消費者が選択的消費を抑えたことにより、比較的急に減少に転じている。(最近では、イオンなど大きなスーパーはアベノマジックをイリュージョンだったとして、商品価格を下げる行動に移ってきた。結局デフレ状態は脱却できていない。)

図―1 消費に占める選択的消費比率(赤い線は12カ月移動平均、家計調査より作成)

これをみても、日銀の異次元的金融緩和がほとんど景気(消費)を刺激していないことがわかる。この点では私が思った通りの結果である。
Nにいわれて改めて日銀のアベノマジックへの対応を見ると、非常に恐ろしい状態になっていることがわかった。

今日はアベノマジックに加担して「コレド室町2」で厚岸産のカキフライ定食と生ガキを食べに行って疲れた。次回恐ろしいアベノマジックについて書くつもりだ。

 

 

価値とはなにか

先日大学時代の友人と飲み会を開いた。旧友は気遣いもそれほど必要もなく、思ったことも忌憚なく話せる。そんな中、私が現在興味の持っているのは「脳とこころ」と「価値観」の関係だ、と話したら、Hに「『かわいい姉ちゃんと遊びたい』、と思うのはなぜ」と問われた。この表現には、「めんどくさいことを言っても何の意味もない」、「結局説明なんかできないだろう」という揶揄が含まれている。しかし、この問いに答えれなければ彼の言うとおりだから、少し考えてみた。
「かわいい」には「みにくい」から「きれいだ」までの美の比較と「おさない」から「おとな」までの認知度の比較が混在している。「かわいい」は美としては中間以上で、認知度では中間以下を指している。このように比較する行為は価値観であり、値踏みをしていることになる。この価値は価値論から考えれば「交換価値」に該当し、一般的には「価値」と呼ばれるものに相当する。 また、「姉ちゃんと遊びたい」という言葉の中には「姉ちゃん」に性的な対象として認知してもらい、性的関係に入りたいという生命の根源からの欲求が含まれている。
この欲求は「種の保存の本能」からくるものだ。生命は誕生時に自然と自身を区別する膜をつくり、その中に自然環境のシステムから切り離された独自のシステム(それ自体も自然のシステムだが)をつくりだした。そして、この「種の保存の本能」はもとをただせば、自然環境の激変の中でも、自己のシステムの永続のため、生命を細かく区切り(個体の死)、遺伝子をつうじて、子孫を残したり(個体の継承)、遺伝子を改変して進化(個体の多様化)する方法を選んだ生命の生き残り戦略でもある。
子孫を残す、子供をつくる行為(生命の生き残り戦略)を価値論から考えれば、「使用価値」にあたり、価値の根源を形成している。 そして、この2つの価値、値踏み(「交換価値」)と欲求(「使用価値」)の交点で「かわいい姉ちゃんと遊びたい」という観念が生まれてくる。
人体の構造から考えれば、性的行為を支える性器は消化器官から分離した「内臓系」の臓器で、性的欲求の源である。また、「かわいい」などの眼や耳など感覚器官から入った情報(認知)は神経系を通じて脳で統合化される。この統合するシステムは「体壁系(感覚ー脳)」を構成して認知や判断を司っている。 このように考えると「内臓系」は「使用価値」に対応し、「体壁系」は「交換価値」に対応しており、その交点に我々のすべての価値が存在する。

天皇の退位と堀北真希の引退

天皇は象徴として生きることを強制されている。肉体は現実の生活を生きる人間としてありながら、ほとんどの生活は抽象化された象徴天皇として対外的には生きなければならない。この2つに引き裂かれた精神の苦痛は計り知れないものと思える。先代の天皇は大戦で死んでいった人々の重さを抱え込んで、人間として生きながら象徴となる苦痛を自らの罪として受け入れて生きた。天皇の生き方はヘーゲルのいう「自由」な表現が奪われていることを意味し、「自由」と「承認」の矛盾を解消することの不可能な状態に落とし込まれている、といえる。このような状況で天皇が自ら「退位」を求めるのは引き裂かれた精神の悲鳴であり、おそらく現天皇以降の天皇は耐え得る精神構造を持ち得るとは思われない。本当に「人間宣言をした天皇」個人の「幸せ」を考えるのならば、そろそろ天皇を返上し、普通の生活をおくることが、「自由」と「承認」の観点からも最も「幸せ」となると考えられる。天皇を象徴天皇といつまでも考えることが少しも天皇個人の「幸せ」を考えていないことを意味している。

堀北真希の引退報道が3月初めころにあった。若き女優や芸能活動する人たちが最近引退することが増えてきたという。この現象の原因は「抽象化された生」において、「自己表現」として「自由」を獲得できずに、単に「承認」得るためだけの「虚構の生」を生きざるを得ないことにある。「現実の生」において「自由」と「承認」が両立できていたとしても、「抽象化された生」は天皇の場合と同じく精神的に耐え得ないものとなることが容易に想定できる。この矛盾の解消にはおそらく天皇の場合と同じく「現実の生」で「自由」と「承認」の関係に立ち返るしか方法がない。これが引退という道を選ぶ理由だろう。

私たちの生活において、「表現」することは基本的に「自由にすきなことをする(労働する)」ことであり、よりよいものをつくったり、考えたりして、さらによい「表現」をすることで、結果として他者に認められたり、自分で満足したり、より普遍性に近づけば「承認」されたことと同じことで、結局「自由」と「承認」の矛盾は克服されたことになる。