無能力な内科医

5/14の週は1週間ビッシリ予定が詰まっていた。この歳になると余裕のない予定は、その後の修復は難しくなるようだ。翌週の月曜日に体がだるく、少し熱があるようだったが、大したことはないと思っていたら、水曜日の夕方から少し咳き込むようになって、夜には咳で眠らない状態に至った。それ以降、今日まで2週間、同じ状態が続いている。病院の内科で気管支炎ということで、咳止め薬、去痰薬を処方された。症状が出てからは、1週間に2日ほど行っていたリハビリを中止し、週に2日の休むことのできない仕事だけに予定を絞っている。随分体力がなくなってきたものだ。

社会を見れば、安倍自民党は戦前の日本を理想の国家として突っ走っているし、イギリスでは頭の中の幻想に縛られた原理主義者や国家主義者が自己の正当性を主張し、一般市民を犠牲にしている。なんとも物騒な世の中になったものだ。

中断

しばらく投稿が中断してしまった。咳が3か月ほど止まらず、2か月目に内科の医者を見限って耳鼻咽喉科に行ってみたら、夜の咳は止まった。その後1か月ほど耳鼻咽喉科にかよって、ほぼ咳が止まり、治ったようだ。内科というのは一体何なんだ、と思ってしまう。「熱が出て、咳が止まらない」といえば、調べもせずに「風邪ですね」といって、解熱剤と咳止めを処方する。なんという無能力か、あきれてものが言えない。本当は内科は総合診療科であってほしいというのは、病院に行く患者の本心だ。素人の患者に客観的に判断して、その症状の原因をつきとめ、わかりやすく説明するのが内科医の責務ではないのか、といっても直接言えるわけもなく、弱い患者の泣き言にすぎない。

「お金」の本質と資本主義のマジック

アベノマジックを考える前に、基礎的な概念を学び直そうと思った。Nから問われた日銀の政策と三菱UFJ銀行の仮想通貨導入問題は結局「お金」の話で、「お金」とは何かを押さえてからアベノマジックを考えることにした。「お金」の本質についてはやはりマルクスの『資本論』が群を抜いていると思われる。『資本論』は大学の時から2度読んで途中で挫折したが、今回は「お金」を中心に3度目の挑戦となる。

『資本論』は「社会的な富はすべて商品として現れている。」として、この富の構成要素から分析が始まっている。そして「商品は、まず第一に何らかの有償性、つまり使用価値をもつものである。その使用価値は商品の持つ性質によって規定される。」としている。「商品の持つ性質」とは化学的組成や形状さらにその商品をつくる労働の違いによるものである。商品は単なる使用価値だけでなく、「もう一つ使用価値を素材的な担い手とする交換価値をもつという側面」をもっている。そして、交換価値は量的な関係として現れる。物々交換で考えると、この量的な関係は交換比率として現れる。この交換比率は需要と供給の関係で現象として多少の変動はあっても、ある程度の水準にある。マルクスは「20エレの亜麻布は1着の上着に値する」を例として交換における価値を考察している。(エレとは、布地などの寸法を測るための単位。亜麻布とはリンネルとも呼ばれ、亜麻の繊維を原料とした織物の総称。プロイセンでは約67センチ、バイエルンでは約83センチ)

20エレの亜麻布=1着の上着

この式は価値方程式と呼ばれ、左辺(価値を表現するもの)は相対的価値形態、右辺(価値表現の材料)は等価形態とマルクスは呼んだ。今、使用価値から見た場合、亜麻布と上着は違うものだから等号で結びつけることができない。とすれば、等しいのは交換価値ということになる。違うものが同じであるということは、具象(使用価値)的なものを捨象(抽象)していって、はじめて等しくなる概念が生まれる。だから、交換価値とは使用価値からの「抽象」を意味する。この「抽象」はいずれ貨幣へと進化する。貨幣が生まれると交換は貨幣を介した交換へと変化していった。

20エレの亜麻布=10ポンド=1着の上着=10ポンド=小麦0.5クォータ
W(もの)-G(お金)-W’(もの)ーG-W”

しかし、当初貨幣は「抽象」によって種々の「もの」と交換は可能だが、単なる物々交換の代用物でしかなかった。しかし、貨幣の流通が増加し、資本主義になると、それまでの使用価値の交換を主体とする取引に加え、交換価値そのものを取引する形態が生じた。

G(お金)-W(もの)-G'(お金)

商品取引を貨幣から始めると10ポンド(G)が最終的に10ポンド(G’)と交換しても意味がない。10ポンドが20ポンドになる、といったように貨幣が増加しないと交換は意味をもたない。これが資本主義のマジックといわれるものだ。なぜ10ポンドが20ポンドになるのか。マルクスは次のように分析する。Gすなわち資本は商品(W)を造るために、資財・機材・人に分配される。そこで、資本から資源・機材を購入し、人を雇用し賃金を支払う。

お金(G1)-資材(W1)
お金(G2)-機材(W2)
お金(G3)-雇用(W3)
G(=G1+G2+G3)ーW(=W1+W2+W3)

結局、この交換は、等価交換である。そして、この商品を売ると

GーWーG’(=G+α)

資本主義のマジックでαだけ「お金」が増加する。資本主義ではこのシステムが際限なく繰り返される。資材や資源はその使用価値を求めて等価交換したものである。ところで人件費、労働の使用価値とは何だろう。労働の使用価値は同じような仕事を継続的に続けることである。すなわち、労働し、食事し、家に帰ってテレビを見て、風呂に入ってリラックスして睡眠をとり翌日会社に行って再び労働をする。自己再生産する費用が労働の使用価値である。等価交換を基本として考えた場合、αは労働から生じた価値と考える他ない。このαは剰余価値と呼ばれる。現在ではこの考え方は資本主義にとって都合が悪いから、表面上、剰余価値は利潤・配当あるいは地代・利子という形態として、賃金とあわせて「所得」という総称で概念化され本質が隠されることになる。実際には、余剰価値は労働者によって作り出された価値であり、この剰余価値を雇用費用に加えたもの(W3+α)が労働の価値である。そう考えて定式化すると。資本主義のマジックは余剰価値を曖昧にして表面上見えにくくしたマジックだった。

お金(G1)-資材(W1)
お金(G2)-機材(W2)
お金(G3)-雇用(W3
支出:G-W(=W1+W2+W
収入:      W’(=W1+W2+W+α))ーG’(=G+α)

このマジックは、現在ではじゃぶじゃぶな「お金」を使った株や不動産の投機に使われミニ・バブルの様相を呈している。抽象化された「お金」は「お金」を求めて永遠に増え続けようとする。

千代田図書館へ~散歩「学生時代の思い出」

アベノマジックの続編はまだ、論理構成が完了していないのでしばらくかかりそうだ。とりあえず、連休中は足を鍛えることを目的として散歩することにした。

今日はつれあいと千代田図書館へむかった。往きに水道橋をとおってしばらく進むと、なつかしい「~白十字」という看板にであった。きれいな教会風建物になって面影もないが、この付近にあったはずだから、おそらく「白十字」の進化形なのだろう。思い出すと、学生時代に神田の古本屋街をぶらぶらして神保町付近の喫茶店「さぼ~る」や神保町と水道橋の中ほどにある「白十字」という喫茶店で休んだものだ。「~白十字」からさらに進むと、何度か吉本隆明の「試行」を買った「文泉堂」があったはずだが、1Fは「てもみん」になっていて、3Fに「文泉堂出版」という看板があった。これも本屋の進化形なのかもしれない。神保町の交差点を右に曲がって、しばらく進み高速道路がある。この下をくぐり、10mほど進んで、「カフェ・ド・クリエ」を左折すると、細い路地があって、この左手に「九段下寿司政」がある。ここの「こはだ」は絶品だが高いから、ここを素通りして右・左が工事中の防護壁に囲まれた路地を進むと、目の前が開け、九段会館の前に出る。ここを左折して数十メートルで千代田区役所に到着する。この9・10Fが千代田区立図書館だ。自宅からほぼ2kmの距離にある。図書館で雑誌を見ながら休んでトイレに行こうとしたら、吉本隆明展をやっていた。やさしさと厳しさが混在した見慣れた写真が数枚飾られていた。大げさに~展などというには恥ずかしいほどのものだったが、なつかしい思い出にふれたように思われた。今回の散歩は思いがけず、「学生時代の思い出」がテーマだったようだ。

アベノマジック(1)

友人Nからメールをもらった。日銀の政策と三菱UFJ銀行の仮想通貨導入にかんする問題点と疑問であった。それまでは日銀の金融政策は何をやっても景気に影響を与えることはできないと考えていたため、あまり深く考えていなかった。なぜそう考えていたかというと、多くの人はこれ以上消費を増やさなくても十分生活でき、安定しているからだ。このことをもう少し考えてみる。景気の一つの指標としてGDP(分配面)をみると、GDPの60~70%が消費で大きな位置を占める。だから景気を良くするということは、この消費を増やすような政策が必要になる。ところで、消費は2つからなるといわれる。一つは生活するうえで最低限必要な消費であって、個々人の抑制が困難な消費で基礎的消費とよばれ、もう一つは被服関係や旅行などの趣味・嗜好性が高い消費であって、個々人が少し抑えようとすれば抑えられる消費で選択的消費とよばれるものである。このため、政策はこの選択的消費を増やすようなものでなければ、GDPも景気も上向かない。GDPの分配面をわかりやすくいえば、(消費+貯蓄+税金)となる。一般市民からみると、(所得ー税金)が可処分所得だから、可処分所得のうち、消費を抑えれば、貯蓄が増える。ところで、選択的消費は先進国において消費の40%を超えるものとなっている。このため、金利を下げて、お金をじゃぶじゃぶにしても景気が良くならないのは、少しでも不安があればその選択的消費を抑えて貯蓄に回しても生活には特段問題はないためだ。だから安倍政権が誕生したとき、アベノミクスで金利を低く抑え「お金」を借りやすくし、一方で、物価を上げインフレに誘導し、企業利益や賃金の引き上げによって所得を増やしGDPを増やすといったマジックを行なおうとした政策は、多少所得が増えても物価も上がり、大した変化などないから、選択的消費を増やす行動に移りえない。図―1の消費に占める選択的消費をみると、2011年の震災やオリンピック需要によって、じゃぶじゃぶにした「お金」を復興や施設建設などに使うことができるようになったため、若干景気が上向いたように感じ、2011年~2014年は選択的消費は緩やかに増えたように見える。しかし、2014年以降は消費税増税やアベノマジックの効果で企業が商品価格を上げたため物価が上昇し、これに対応した消費者が選択的消費を抑えたことにより、比較的急に減少に転じている。(最近では、イオンなど大きなスーパーはアベノマジックをイリュージョンだったとして、商品価格を下げる行動に移ってきた。結局デフレ状態は脱却できていない。)

図―1 消費に占める選択的消費比率(赤い線は12カ月移動平均、家計調査より作成)

これをみても、日銀の異次元的金融緩和がほとんど景気(消費)を刺激していないことがわかる。この点では私が思った通りの結果である。
Nにいわれて改めて日銀のアベノマジックへの対応を見ると、非常に恐ろしい状態になっていることがわかった。

今日はアベノマジックに加担して「コレド室町2」で厚岸産のカキフライ定食と生ガキを食べに行って疲れた。次回恐ろしいアベノマジックについて書くつもりだ。

 

 

価値とはなにか

先日大学時代の友人と飲み会を開いた。旧友は気遣いもそれほど必要もなく、思ったことも忌憚なく話せる。そんな中、私が現在興味の持っているのは「脳とこころ」と「価値観」の関係だ、と話したら、Hに「『かわいい姉ちゃんと遊びたい』、と思うのはなぜ」と問われた。この表現には、「めんどくさいことを言っても何の意味もない」、「結局説明なんかできないだろう」という揶揄が含まれている。しかし、この問いに答えれなければ彼の言うとおりだから、少し考えてみた。
「かわいい」には「みにくい」から「きれいだ」までの美の比較と「おさない」から「おとな」までの認知度の比較が混在している。「かわいい」は美としては中間以上で、認知度では中間以下を指している。このように比較する行為は価値観であり、値踏みをしていることになる。この価値は価値論から考えれば「交換価値」に該当し、一般的には「価値」と呼ばれるものに相当する。 また、「姉ちゃんと遊びたい」という言葉の中には「姉ちゃん」に性的な対象として認知してもらい、性的関係に入りたいという生命の根源からの欲求が含まれている。
この欲求は「種の保存の本能」からくるものだ。生命は誕生時に自然と自身を区別する膜をつくり、その中に自然環境のシステムから切り離された独自のシステム(それ自体も自然のシステムだが)をつくりだした。そして、この「種の保存の本能」はもとをただせば、自然環境の激変の中でも、自己のシステムの永続のため、生命を細かく区切り(個体の死)、遺伝子をつうじて、子孫を残したり(個体の継承)、遺伝子を改変して進化(個体の多様化)する方法を選んだ生命の生き残り戦略でもある。
子孫を残す、子供をつくる行為(生命の生き残り戦略)を価値論から考えれば、「使用価値」にあたり、価値の根源を形成している。 そして、この2つの価値、値踏み(「交換価値」)と欲求(「使用価値」)の交点で「かわいい姉ちゃんと遊びたい」という観念が生まれてくる。
人体の構造から考えれば、性的行為を支える性器は消化器官から分離した「内臓系」の臓器で、性的欲求の源である。また、「かわいい」などの眼や耳など感覚器官から入った情報(認知)は神経系を通じて脳で統合化される。この統合するシステムは「体壁系(感覚ー脳)」を構成して認知や判断を司っている。 このように考えると「内臓系」は「使用価値」に対応し、「体壁系」は「交換価値」に対応しており、その交点に我々のすべての価値が存在する。

天皇の退位と堀北真希の引退

天皇は象徴として生きることを強制されている。肉体は現実の生活を生きる人間としてありながら、ほとんどの生活は抽象化された象徴天皇として対外的には生きなければならない。この2つに引き裂かれた精神の苦痛は計り知れないものと思える。先代の天皇は大戦で死んでいった人々の重さを抱え込んで、人間として生きながら象徴となる苦痛を自らの罪として受け入れて生きた。天皇の生き方はヘーゲルのいう「自由」な表現が奪われていることを意味し、「自由」と「承認」の矛盾を解消することの不可能な状態に落とし込まれている、といえる。このような状況で天皇が自ら「退位」を求めるのは引き裂かれた精神の悲鳴であり、おそらく現天皇以降の天皇は耐え得る精神構造を持ち得るとは思われない。本当に「人間宣言をした天皇」個人の「幸せ」を考えるのならば、そろそろ天皇を返上し、普通の生活をおくることが、「自由」と「承認」の観点からも最も「幸せ」となると考えられる。天皇を象徴天皇といつまでも考えることが少しも天皇個人の「幸せ」を考えていないことを意味している。

堀北真希の引退報道が3月初めころにあった。若き女優や芸能活動する人たちが最近引退することが増えてきたという。この現象の原因は「抽象化された生」において、「自己表現」として「自由」を獲得できずに、単に「承認」得るためだけの「虚構の生」を生きざるを得ないことにある。「現実の生」において「自由」と「承認」が両立できていたとしても、「抽象化された生」は天皇の場合と同じく精神的に耐え得ないものとなることが容易に想定できる。この矛盾の解消にはおそらく天皇の場合と同じく「現実の生」で「自由」と「承認」の関係に立ち返るしか方法がない。これが引退という道を選ぶ理由だろう。

私たちの生活において、「表現」することは基本的に「自由にすきなことをする(労働する)」ことであり、よりよいものをつくったり、考えたりして、さらによい「表現」をすることで、結果として他者に認められたり、自分で満足したり、より普遍性に近づけば「承認」されたことと同じことで、結局「自由」と「承認」の矛盾は克服されたことになる。

 

Nへ~ヘーゲルの「自由」と「承認」

ヨーロッパでは、思想的課題として「自由」が常に大きな位置をしめていた。ルソーやカントは「自由」は元来持っている本質としてとらえ、ヘーゲルは「人間は歴史と無関係に自由な存在ではなく、『時代の精神』が徐々に変化していく歴史の中で次第に自由を知っていく過程」だ、として「自由」の意味を徐々に理解していく存在であると考えた。また、一方で人間は個体としては全くの一人であるが、一人では生存できないことは自明である。この矛盾によって、個体の「自由」を求めながらも少なからず相互に「承認」しながら生きることを強制されてきた。ヘーゲルの『時代精神』は幼年期、少年期、青年期、大人へと至る成長過程で『個体の精神』に反映され、「自由」と「承認」の葛藤の中で(弁証法的に)形を変えながら当時の最も進んだ形態へと進化していくとした。この『時代精神』とはアダムスミスの考え方に代表される考え方で「自分自身の利益を考究していくうちに、 かれは、 自然に、否むしろ必然に、この社会にとってもっとも有利な用途を選考するようになる」という資本主義の基本原理だ。このような『時代精神』をヘーゲルは『個体の精神』に反映させ「個人の内なる個性を発揮して自己表現することで、製品(作品)を現実の世界に生み出す。自分の個性をひたすら表現することが大事だと考えている(「自由」)から表現できたことで、満足できると考えている。しかし、表現されたものは外在するから自身でも客観的に見ざるを得ない。次第に自分の製品を客観的に見ることができるようになり、他者や社会からの批判(「承認」)も加わって、より「ほんもの」の(普遍的な)作品を創ろうと努力するようになる。」と考えた。そして、結局「このような行為や表現は個々人の自由と批評を含んだ社会的行動になっており、自由の欲求と承認の欲求は矛盾せずに結びつく。」と考えることで、最終段階において、「自由」と「承認」の相克は止揚されたことになるとした。

(自注)ヘーゲルの『時代精神』はギリシャ・ローマ時代からはじまり、アジア的段階やアフリカ的段階は未開時代として無視している。このことに対し三木成夫はちょうどヘーゲルのアダムスミスのように、個体の未開時代を脊椎動物の発生と進化そして人類の発達と3歳までの個体の発達を関連付けた。また、吉本隆明もヘーゲルのように個体の未開時代の精神を「アフリカ的段階」と位置づけ、分析した。

再び森本学園について~政党の理念

産経新聞インターネト版によれば、

「安保情勢が厳しい中で安倍晋三首相や稲田朋美防衛相の足を引っ張るのは、北朝鮮や中国と通じているのではないかと疑われても仕方ない」-。日本維新の会の足立康史衆院議員は17日の衆院外務委員会で、森友学園問題をひたすら追及する民進党を批判した。・・・

とあった。

日本が戦時中の安保(?)情勢が厳しい時、政府や軍部を批判することが敵国(米国など)に通じているのではないか、と疑われ、投獄させられたり殺されたりすることがあった。維新の会の足立という議員は当時と同じ論理を使って民進党を批判している。私は自民党や民進党などあらゆる政党や宗派などを忌み嫌うもので、民進党を擁護したいなどとは全く思わないが、戦後70年以上もたっても同じような論理が生き続けている現状にほとほといやになってくる。

午前8時頃のNHKの「ニュース深読み」で、中国が韓国のTHAAD配備に対し、国家ぐるみで韓国に圧力をかける状況を放映していた。その中には、

中国にあるロッテデパート前で数十人の人たちがシュプレヒコールで不買を叫んでいた。そこに、ひとりの老人(?)がやってきて、「俺は買い物をしたいから来た。通してくれ」といったら、指導者らしき人が「お前は個人の利益と国家の利益とどちらを優先するのか」と詰問していた。老人は何も言わず立ち去っていった。

というようなものがあった。

この光景から足立議員と中国のロッテ不買運動の指導者が二重写しに見えてくる。以前にもこのブログで「北朝鮮と日本」としてつぶやいたことがあったが、再びつぶやきたくなった。民進党が「北朝鮮や中国と通じている」かどうかは定かではないが、足立議員と維新の会や自民党の理念は北朝鮮や中国と同じであることは確かなように思われる。

築地市場移転問題~土壌汚染

1960年代から1970年代にかけて、水銀やカドミウム、六価クロムなどの重金属やPCBなどの化学物質による公害が発生し、人間や動物の健康を害し、植物が枯れる等大きな社会問題となった。化学物質が事故などにより土壌に浸透したり、不法に土壌へ捨てられ、土壌の持つ浄化能力を超えて過剰に土壌へ入ると、土壌が持つ諸機能を損ない、地下水汚染をはじめとした環境汚染を引き起こすことにもなる。土壌汚染が明らかになると対策が実施されるが、一度汚染された土壌環境を再び回復することは非常に困難であることは、今までの土壌汚染から明らかである。

米国では1970年後半に「ラブ・キャナル事件」として有名な土壌汚染が問題となった。この問題はニューヨーク州北部のナイヤガラ近くのラブ運河を買収したフッカー電気化学は1950年頃に多くの有害化学物質(BHC,ダイオキシン,トリクロロエチレンなど)を合法的に投棄したことから始まった。その後、この運河は埋め立てられて売却され、その上に学校や住宅が建設された。しかし、埋め立て後30年をへて、投棄された有害化学物質が漏出し、住民たちに遺伝子の異常が現れ、流産や死産が多発し社会問題となった。1978年非常事態宣言が出され、立ち退き指定を受けた200の住宅や学校が埋められた。この事件を契機にEPA(環境保護庁)は、1980年に関係者(廃棄物排出者、輸送業者、土地の管理者、融資した金融機関など)すべてに汚染を完全に除去する費用を負担させる包括的環境対処補償責任法(スーパーファンド法)を成立させた。この結果、米国では土壌汚染は大きな環境リスクと考えられるようになり、土地の売買には土壌調査が欠かせないものとなった。

築地市場の豊洲移転問題は2000年頃土壌対策などを東京ガスと協議したことになっている。日本の土壌汚染や米国のラブ・キャナル問題など20年以上も前に起き、その対処の難しさも十分に知っていたにもかかわらず、その対策コストの計算もせず、強引に豊洲移転に踏み切ったことは、我が国の政策によくみられる現象だ。アスベスト問題しかり、ハンセン病、水俣病などしかりである。個人に及ぶ問題よりも企業の利益、あるいは目先の全体の利益を追求する姿勢は依然として変わっていない。まさに、政府が忌み嫌う中国などと同レベルである。

北朝鮮と日本~森友学園と北朝鮮の類似性

金正男が殺害された。北朝鮮が関与しているといわれている。米国はテロ支援国家に再認定するかもしれない。ところで、日本では森友学園の国有地払い下げの不透明な手続きが問題視されている。森友学園の幼稚園教育の一端がTVで放映された。園児が声をそろえて教育勅語を素読している映像で一瞬目を疑った。これは北朝鮮ではないか。

朝日新聞によれば、森友学園では、園児に「日本を悪者として扱っている中国、韓国が心改め、歴史でうそを教えないようお願いいたします」といわせているようだ。この言葉の中には北朝鮮が入っていないが、わざと排除しているのか、それとも評ずるに値しないと思っているか定かではない。しかし、園児のこのような姿には国家(共同体)に縛られた子どもたちの思想教育のイメージが付きまとってしまう。この観点からは森本学園が完璧な思想教育をしている北朝鮮を素晴らしい国家と考えているのだろうと思えてくる。(今、日本が北朝鮮と同じような国家かどうかは別にして)森友学園は日本を北朝鮮と同じような国家にしたいと考えているように思えるのは私だけだろうか。

安倍首相のつれあいも、「立派な教育理念を持った学園」といったらしいが、思考(嗜好)が夫婦は似てくるらしいから、安倍首相も表面上は否定しているが、森友学園と同じような思想を持っているのだろう。