現実社会と国家

 最近米中関係、日韓関係、イギリスとEUなど国家間の問題がクローズアップされている。これらの問題は経済社会と国家の問題である。なぜいつもこのような問題が沸き起こってくるのだろうか。結論から言えば経済社会は国家を超えているにもかかわらず依然として国家という幻想にとらわれている、あるいは利用している政府や個人がいるからだ。
 ヘーゲルによればもともと国家とは宗教→法→国家と段階的に発展してきたもので、現実の社会とは相対的に独立した進化をとげたものとみなしている。もちろん全く現実社会が国家にあるいは国家が現実社会に影響を与えないというわけではないが観念の世界はある程度独立した形態で進化すると考えた。例えば法として成立する概念は、個々人の意志をすべて集めてきて、その共通部分を法とする、という考え方だ。簡単にいえば、現実の個々人の意志の普遍性を抽象してきて法をつくるということで、個々人の考えている現実の意思と法とは別物だということだ。たとえば、酒に酔って立ちションをしたり、タバコのポイ捨てをしたりしてしまうことがあるし、誰でも軽犯罪に近いことを経験しているに違いない。このことが、個々人の現実の意志は法よりも幅広いことを証明している。だから、法が抽象である限り個々人の現実の意志よりも狭い範囲にあるということになる。その後成立してくる国家も我々の生きる現実社会よりも狭い範囲にならざるを得ない。これが経済社会は国家を超えて拡張していくが国家は依然として観念の世界でせめぎあっている理由である。
 しかし、国家が前面に出てくると、多くの人々は国家が現実社会を大きく包み込む存在として考えてしまい、無意識の中で国家の意志と個々人の意志を同置することになる。日本が大戦に邁進していった理由の一つはここにあるともいえる。そして現在、国家が経済を規制し経済の進化を妨げる状況に至っている。更なる経済の進化を望むなら、幻は幻のままで、現は現のままで、国家による経済統制のない状況をつくりあげるほかない。

霧の階段

  詩はあまり意味を考えずに直感で理解することが多いのだが、一つひっかかると、どうしても理屈づけしたくなってしまう。森川の「勾配」を理解しようと試みるに従い、この「階段」を受けて書かれたという鮎川の「たとえば霧や、あらゆる階段の跫音のなかから遺言執行人がぼんやりと姿を現す。これがすべての始まりである」における階段とは森川と同じ「階段」なのか、という疑問が生じる。どうも違った「階段」のように思われる。森川の到達した「非望の階段」は当時の鮎川など個々の「自由な表出」を掲げてきた者たちにとっては共通に担わされた「階段」であっただろう。そして戦後生き残った鮎川たちがたどり着いた「階段」は先の見えない「霧の階段」であったに違いない。

 


死んだ男  鮎川信夫

たとえば霧や
あらゆる階段の跫音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
——これがすべての始まりである。

遠い昨日……
ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
——死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった。

Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かかった黄金時代——
活字の置き換えや神様ごっこ——
「それが、ぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて……

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

埋葬の日は、言葉もなく
立会う者もなかった、
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横わったのだ。
「さよなら。太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。

 鮎川は昔M(森川?)などとよく行ったとみられる薄暗い酒場に降り立ったとき、戦死した者たちの「遺言執行人」として、この地点から出発するほかなかったのだ。「遠い昨日、ぼくらは暗い酒場の椅子のうえで、ゆがんだ顔をもてあましたり、手紙の封筒を裏返すようなことがあった。『実際は、影も、形もない?』、ー死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった。」許されるならば勝手な解釈をしてみよう。鮎川はMたちと降り立った酒場でよく酒に酔った口調で議論しあったり、投稿されてきた詩の差出人を見たりしあったのだろう。そしてそのような個人的あるいは仲間内の楽しかったことは、生き残ってしまった今考えてみると、戦争の現実に対しては幻に過ぎなかった。「Mよ、昨日のひややかな青空が、剃刀の刃にいつまでも残っているね。だがぼくは、何時何処できみを見失ったのか忘れてしまったよ。短かかった黄金時代ー、活字の置き換えや神様ごっこー、『それがぼくたちの古い処方箋だった』と呟いて……」鮎川は戦前の凍えるばかりのひんやりとした冷たさは覚えているが、Mの生き生きとした面影は忘れてしまったといっている。短かった黄金時代だったあの頃は言葉遊びなどで、言葉を紡ぎだすことが詩作の処方箋だった。「いつも季節は秋だった、昨日も今日も、『淋しさの中に落葉がふる』その声は人影へ、そして街へ、黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。」そして死にそこなって帰ってきてもそこはいつも愁いにみち「昨日も今日も、『淋しさの中に落葉がふる』」情況で、内側に深く鉛のような沈んだ心象は個々の人や街々にいつまでも続いていた。Mを詩人として葬るための「埋葬の日は、言葉もなく、立会う者もなかった、憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。空にむかって眼をあげきみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横わったのだ。」「『さよなら。太陽も海も信ずるに足りない』Mよ、地下に眠るMよ、きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか」

 Mが最後に到達した「生命の根源である」自然(太陽や海)も信じるに足りない。なぜなら、自然はやおろずの神につうじ、やおろずの神は天照大神につうじ、天照大神は天皇制につうじ、天皇制は国家につうじ、国家は戦争につうじている。「言葉の置き換えや神様ごっこ」などの言葉遊びで「自由な表出」の行きつく先は「非望の階段」であった。そして、鮎川自身やM、さらには当時の知識人を含むほとんどの人々が、「非望の階段」の到達点である「自然」への逃避の道を選択せざるを得なかった。しかし、その逃避さえもMの死につながっていた。そこに至った原因は「非望の階段」を強要する「現実世界」の重さであった。それゆえ、鮎川は「霧の階段」に降りたったとき、遺言執行人として「太陽と海」に別れを告げることから始めたのだ。その後、鮎川たちは、詩が「現実世界」と同じ重さになるほどの言葉を紡ぎだすために「真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせる」(吉本隆明『廃人の歌』)あるいは「一篇の詩が生むためには、われわれはいとしいものを殺さなければならない、これは死者を甦らせるただひとつの道であり、われわれはその道を行かなければならない」(田村隆一『四千の日と夜』)という地平から「戦後詩」を切り開いていった。

非望の階段

 友人Nからメッセージが届いた。森川義信の詩「勾配」(以下に掲載)についてのコメントであった。その中に誰が書いたかわからないが、次のような一文(以下「解説文」)があった。

1939年に書かれた「勾配」では、「太陽も海も信ずるに足りない」とき、もはや、個/孤の底に向かって、階段/勾配を「おりて」いくことしか残されていない。向かい合うものは己しかない。と詠う。


勾  配       森川義信

非望のきはみ
非望のいのち
はげしく一つのものに向かって
誰がこの階段をおりていったか
時空をこえて屹立する地平をのぞんで
そこに立てば
かきむしるやうに悲風はつんざき
季節はすでに終わりであった
たかだかと欲望の精神に
はたして時は
噴水や花を象眼し
光彩の地平をもちあげたか
清純なものばかりを打ちくだいて
なにゆえにここまで来たのか

だがみよ
きびしく勾配に根をささへ
ふとした流れの凹みから雑草のかげから
いくつもの道ははじまってゐるのだ

 詩や文学作品は作者自身の過去や執筆時点の固有時空からの表出とはかかわりなしに読者の固有時空が存在するから、さまざまな解釈が成り立ちうる。ただ、その「作品」が優れているかどうかは多くの人の共感時空(固有時空の普遍性)が持ちえるかどうかだ。共感時空はすべての人で同じわけではない。しかし、表出された「作品」が各個人の固有時空と共鳴するわけだから、共感時空が存在しえるとすれば、それぞれに共鳴することができること、すなわち様々な解釈が成立すること以外ないことになる。それが、「作品」の普遍性であり、優れた「作品」には解釈の多様性が成立するということだ。だから「解説文」の解釈と私の解釈が違っていても特段問題があるわけではない。しかし、この森川義信は私の好きな詩人のひとりだから、特に「解説文」の解釈には異和を感じてしまう。詩人は誰でも「太陽も海も信ずるに足り」ようと「足りな」かろうと個への階段を言葉と出会うために降りていかなければならない。だとすると「解説文」の言う階段は詩人にとって当たり前の階段だということになる。そのような階段をわざわざ表出する必要などありはしない。おそらくそうではない。「非望」の階段なのだ。自分と国家・社会や他人あるいは自分自身との関係性が強いてくる「非望の階段」なのだ。「希望」も「絶望」も超えた「あきらめ」にも近い心境の中で、人間としての理解や意志を放棄して生命の根源に近いところまで降りていく階段なのだ。それは人としての「死」を意味し、その境界に立った時、「かきむしるやうに悲風はつんざき、季節はすでに終りであつた」のだ。その地点から「人」であった自分を見た時「たかだかと欲望の精神に、はたして時は、噴水や花を象眼し、光彩の地平をもちあげたか、清純なものばかりを打ちくだいて、なにゆえにここまで来たのか」とうつむきかげんに自問している。しかし、(階段から遠くを望めば)そこには「きびしく勾配に根をささへ、ふとした流れの凹みから雑草のかげから、いくつもの道ははじまつてゐるのだ」と終わる。「非望の階段」のつきるところには、理解や意思もない植物が、ただ、厳しい自然にさらされながら、ひたすら「なされるままにすべてを受け入れ」生きている姿があった。「豊かな大地に深く根をおろし、太陽の輝く大空にむかってそのからだをまっすぐに伸ばしたその姿は」たくましくもあり、力強くもある。そのような生き方こそ生命の基本的な生き方であり、その地点から何かが始まるかもしれない、といっているようように思える。「非望」の末にたどり着いた地平である。そして彼は1942年ビルマの戦地で狂って眠ったという。わずか25歳の命であった。

 一般に植物は、太陽の光のもとで空からの雨、大地の無機物そして空気中の炭酸ガスをもとに、自らに持つ葉緑素の力でからだを造ってゆく、これらの素材は、考えてみれば、自然を構成する地・水・火・風のすべてにそれぞれ由来したもので、いずれも一部の地域を除いて、この地球上にあまねく存在する。こうした合成能力を持つ植物たちは、いわば居ながらにして己のからだを養っていくことが出来る。豊かな大地に深く根をおろし、太陽の輝く大空にむかってそのからだをまっすぐに伸ばしたその姿は、こうした食の形態を端的に象徴するものといえよう。(三木成夫『生命形態の自然誌』うぶすな書院、1989)

図 アリストテレスの自然と生命の階層
(三木成夫『生命形態の自然誌』うぶすな書院、1989より孫引き、若干の変更)

じゃあね

 11月7日、老人ホームに入っていた97歳の母が逝った。雑草が冬に枯れて自然に帰っていくようにゆっくりと眠りの中で去った。2週間前には握手しながら「じゃあね」というと、「車で帰るのでしょ、きをつけてね。」といつものあいさつで別れた。1週間ほど前ではあまり食事をとらず、水もほとんど飲まない状態になっていたが、それでも「水を飲まなきゃね。」といっていたので生きようとする気力を感じていた。その後、5日前にはだんだんと食事も水ものまなくなって、とわの眠りについた。

 カミュの『異邦人』ではないが、根っこが失われたような浮遊感がある。昔の人は「あの世」を現実の世界の延長と考えていたから、「あの世」と「この世」の2つの世界がつながり自分と先祖がつながる安定した世界があった(祖霊信仰)。現代では「あの世」など信じる根拠など全く失われているため根っこのない浮遊感だけが残る結果となっている。でもよくよく考えてみると生命は誕生して以来綿々とつながっており、親子のつながりもこの流れの一端である。「あの世」「この世」のつながりを想定しなくても現在あるすべてが自分の存在の根拠である。だからこの浮遊感から現在を否定していく「異邦人」になる必然性もなく、この浮遊感を超えていくという課題は、個々人の現在へのかかわりに帰される問題でもある。

 いま一つ不思議な体験をした。母が亡くなって数時間安置したのち老人ホームから霊柩車に移すとき、見送りに来た老人ホームの職員から「挨拶をしてください」と突然いわれ、何を言ったかは覚えていないが最後に「ありがとうございました」といったとき、胸の奥から突き上げてくるものがあった。言葉にしなければ、このようなことにはならなかったと思える。これは私が考えてきた流れから言うと、言葉を表出した時に必ず「こころ」を内在化させてしまうため、言葉で抑えることができないほどの「こころ」がある場合、「こころ」が胸の奥からあふれ出すということのように思われる。

 この喪失感やあふれ出すものがあるときは詩心のある人は詩にすることもできるのだろうが私にはその才能がない。若いころ読んだ「森川義信詩集」の一篇で代用するほかない。

・・・「じゃあね」

哀歌                森川義信

枝を折るのは誰だらう
あはただしく飛びたつ影は何であらう
ふかい吃水のほとりから
そこここの傷痕から
ながれるものは流れつくし
かつてあつたままに暮れていつた
いちどゆけばもはや帰れない
歩みゆくものの遅速に
思ひをひそめ
想ひのかぎりをこめ
いくたびこの頂に立つたことか

しづかな推移に照り翳り
風影はどこまで暮れてゆくのか
みづから哀しみを捉へて佇むと
ふと
こころの佗しい断面から
わたしのなかから
風がおこり
その風は
何を貫いて吹くのであらう

「人間性とは何か」懇談会を終えて

 今回の懇談会で違和感を感じていました。何が違和感だったのかを考えてみますと、二つほどあります。一つには個々の人たちは自分の問題を抱えており、その解決の手がかりを得ようとしているにもかかわらず、私の考えてきたことは問題全体をどのようにとらえて、全体としてどのように解決したらいいのかということで、具体性に欠けていることだと思います。私はもともと個々の問題を解決しても、全体としての解決にはならないと思っていますし、それに関する専門的な知識もありません。これが違和感の原因だと思います。もう一つは、正しいことを言いすぎてるということです。正しいとは現時点で正しいということで、常識の範囲内であまりあたりさわりのないところで、コミュニケーションを行っている、ということです。おそらくそこで人間性の本質を見極めることはできないとおもいます。障害者の苦しみや喜び、生活の上でのなやみや笑、すべて個人・個人が経験したことを個人個人が対象化し、考え悩み、その上で発せられた(自分に向けられた)言葉が重要です。そのことが人間の闇(無意識)と連動しているからです。その無意識の領域がすぐれた文学などには表れています。私(たち)はこの無意識に共鳴するのです。無意識は胎児~2歳までに形成されます。この時期が脳と内臓が連携していく時期にあたります。この時期は母親との接触が中心の世界になります。ですから母親の快・不快が、子供の内臓の快・不快と連動し、子供の脳に快・不快の構造が形成されます。
 人間と動物を区別するとき、いろいろな違いが挙げられます。そのなかで、最も重要なのは、人間は分節を発生させることができたことと、特定の一人を愛情の対象にできたことです。我々が言葉を話すのは自然に感じますが、赤ちゃんを見ればわかりますが、「葉っぱ」という言葉を話すときに、ものすごくきつそうな顔をしながら発しています。このとき、呼吸を止めることができないと分節は発生できないのです。呼吸を止めるということは生死にかかわることです。これは凄まじい集中力を必要とします。恋愛も一人に集中する力です。なぜ、集中できるようになったかは不明ですが、内臓(肺)の働きを脳が抑制することで達成できるようになったことは明白です。このことが元来、動物の遠吠えのような内臓(心)の叫びが脳の抑制で言葉に進化したとおもわれます。ですから、言葉には本当(心)のことを内在化させる作用があるのだとおもいます。
 これが人間の本質を規定しているとすると、日々我々は嘘をついたり、気取ったり、飾ったりすることはまさに人間性というほかありません。たまには抑制をゆるめて、動物的になったり、植物的になったりして、こころを開放することも必要なのかもしれません。

「人間性とは何か」への回答

メールで質問があった。
普通生物体は生き延びる様に生きますよね?
人間は、原発とか核戦争とか、1歩間違えば、破滅するかもしれないようなものを何故、作っていくのでしょう?そう言うことも、人間性に含まれますか?

回答
 人間性の定義はむずかしいのですが、言えることは人間の行うことすべてが人間性に含まれると思います。ただ、人間性には、植物性、動物性もすべてふくまれています。あるときは植物性が主体的にあらわれたり、あるときは動物性があらわれたり、あるときは人間の原始的共同性があらわれたり、一人の人を愛するという恋愛感情をもったり、国家や宗教などの共同性に身を置いてしまって戦争を起こすことがすべて人間性です。ただこれらが並列的でもありますが、徐々に段階(歴史)的につみ重ねてきた部分もあります。原発は実際は科学技術の問題です。今発見されている素粒子などもある意味では危険なものです。科学が発展すると危険性は格段に増えていきます。科学技術の応用には危険性が伴いますが、発展を止めることはできません。注意深く取り扱う必要があります。一方、戦争や核爆弾の開発、軍事費用の増大など戦争につながる行為は国家や宗教など共同性の問題です。(主体的か非主体的かを問わず)戦争は個人が共同性に巻き込まれた争いです。国家や宗教を越えて個人が主体になる情況が見えてきていません。先進国でさえ、逆戻りして国家主義的になってきています。でも人間性は最終的には個人を主体とした自由・平等・博愛を理想とした社会を目指しているのではないでしょうか。

Sの死と「死の宣告」

 我が友、Sさんが2月14日逝去されました。冥福を祈ります。

 2月19日通夜に行ってきました。遺族の方の話では、2年程前にがんが判明し、余命2年半と宣告されたようです。しかし、本人は「自己の死」を了解できず、苦悩し、カウンセリングを受けていたそうです。40年ほど前、私の姉が亡くなりました。姉は胃癌から骨髄に転移し、「あと長くて半年」と医師に宣告されました。当時の医師は本人に「死の宣告」を行いませんでした。医師が宣告の苦痛を避けているともいえますが、「死」の宣告は家族の選択で、ということが一般的でした母がいないとき姉に「本当のことを話して」といわれましたが、言葉に詰まって、結局本当(医師の宣告が本当かどうかなどわかりません。)のことを言えませんでした。でも、姉はそれ以降一度も「本当のこと」を問いただすことはなく、母の将来を気遣って自分が死んだ場合に年金はもらえるから心配ないということをいっていました。姉は感受性が豊かな人でしたから、弱っていく身体の中ですべてを察知していたように思います。

 元来「死」は本人以外経験できないものです。私たちの「死」の了解は「他者の死」の了解にすぎません。「自己の死」を宣告されても経験できないものを了解することは難しく思われます。今では本人への「宣告」は普通になっていますが、それが本当に意味あることなのか疑問になります。おそらく、「宣告」など受けても受けなくても本人は「死」が近づいてきていることを自己の身体との対話の中で、ぼんやりと感じているように思われます。了解とは脳と内臓とのコミュニケーションによる調和で、「腑に落ちる」ことです。これには時間がかかるものと考えられます。内臓の崩壊が始まったばかりの時にはまだ内臓は「死」を感覚できません。脳は客観的に「他人の死」を「自己の死」と同値しようとしますが、内臓が納得しません。徐々に内臓の崩壊が進むと内臓感覚も不快感を増大させます。そして、不快感はおぼろげながら「自己の死」を了解せざるをえない情況に至る、と思われます。

 かなりしんどい話ですが、家族や近親者ができることといったら、「宣告」を受けとり、死にゆく者の「死」を了解し、伝えるかどうかを判断し、すべてを飲み込み、支える覚悟で対処する他なく、できたとしても、「自己の死」の苦悩をほんの少し緩和させるだけなのかもしれません。

無能力な内科医

5/14の週は1週間ビッシリ予定が詰まっていた。この歳になると余裕のない予定は、その後の修復は難しくなるようだ。翌週の月曜日に体がだるく、少し熱があるようだったが、大したことはないと思っていたら、水曜日の夕方から少し咳き込むようになって、夜には咳で眠らない状態に至った。それ以降、今日まで2週間、同じ状態が続いている。病院の内科で気管支炎ということで、咳止め薬、去痰薬を処方された。症状が出てからは、1週間に2日ほど行っていたリハビリを中止し、週に2日の休むことのできない仕事だけに予定を絞っている。随分体力がなくなってきたものだ。

社会を見れば、安倍自民党は戦前の日本を理想の国家として突っ走っているし、イギリスでは頭の中の幻想に縛られた原理主義者や国家主義者が自己の正当性を主張し、一般市民を犠牲にしている。なんとも物騒な世の中になったものだ。

中断

しばらく投稿が中断してしまった。咳が3か月ほど止まらず、2か月目に内科の医者を見限って耳鼻咽喉科に行ってみたら、夜の咳は止まった。その後1か月ほど耳鼻咽喉科にかよって、ほぼ咳が止まり、治ったようだ。内科というのは一体何なんだ、と思ってしまう。「熱が出て、咳が止まらない」といえば、調べもせずに「風邪ですね」といって、解熱剤と咳止めを処方する。なんという無能力か、あきれてものが言えない。本当は内科は総合診療科であってほしいというのは、病院に行く患者の本心だ。素人の患者に客観的に判断して、その症状の原因をつきとめ、わかりやすく説明するのが内科医の責務ではないのか、といっても直接言えるわけもなく、弱い患者の泣き言にすぎない。

「お金」の本質と資本主義のマジック

アベノマジックを考える前に、基礎的な概念を学び直そうと思った。Nから問われた日銀の政策と三菱UFJ銀行の仮想通貨導入問題は結局「お金」の話で、「お金」とは何かを押さえてからアベノマジックを考えることにした。「お金」の本質についてはやはりマルクスの『資本論』が群を抜いていると思われる。『資本論』は大学の時から2度読んで途中で挫折したが、今回は「お金」を中心に3度目の挑戦となる。

『資本論』は「社会的な富はすべて商品として現れている。」として、この富の構成要素から分析が始まっている。そして「商品は、まず第一に何らかの有償性、つまり使用価値をもつものである。その使用価値は商品の持つ性質によって規定される。」としている。「商品の持つ性質」とは化学的組成や形状さらにその商品をつくる労働の違いによるものである。商品は単なる使用価値だけでなく、「もう一つ使用価値を素材的な担い手とする交換価値をもつという側面」をもっている。そして、交換価値は量的な関係として現れる。物々交換で考えると、この量的な関係は交換比率として現れる。この交換比率は需要と供給の関係で現象として多少の変動はあっても、ある程度の水準にある。マルクスは「20エレの亜麻布は1着の上着に値する」を例として交換における価値を考察している。(エレとは、布地などの寸法を測るための単位。亜麻布とはリンネルとも呼ばれ、亜麻の繊維を原料とした織物の総称。プロイセンでは約67センチ、バイエルンでは約83センチ)

20エレの亜麻布=1着の上着

この式は価値方程式と呼ばれ、左辺(価値を表現するもの)は相対的価値形態、右辺(価値表現の材料)は等価形態とマルクスは呼んだ。今、使用価値から見た場合、亜麻布と上着は違うものだから等号で結びつけることができない。とすれば、等しいのは交換価値ということになる。違うものが同じであるということは、具象(使用価値)的なものを捨象(抽象)していって、はじめて等しくなる概念が生まれる。だから、交換価値とは使用価値からの「抽象」を意味する。この「抽象」はいずれ貨幣へと進化する。貨幣が生まれると交換は貨幣を介した交換へと変化していった。

20エレの亜麻布=10ポンド=1着の上着=10ポンド=小麦0.5クォータ
W(もの)-G(お金)-W’(もの)ーG-W”

しかし、当初貨幣は「抽象」によって種々の「もの」と交換は可能だが、単なる物々交換の代用物でしかなかった。しかし、貨幣の流通が増加し、資本主義になると、それまでの使用価値の交換を主体とする取引に加え、交換価値そのものを取引する形態が生じた。

G(お金)-W(もの)-G'(お金)

商品取引を貨幣から始めると10ポンド(G)が最終的に10ポンド(G’)と交換しても意味がない。10ポンドが20ポンドになる、といったように貨幣が増加しないと交換は意味をもたない。これが資本主義のマジックといわれるものだ。なぜ10ポンドが20ポンドになるのか。マルクスは次のように分析する。Gすなわち資本は商品(W)を造るために、資財・機材・人に分配される。そこで、資本から資源・機材を購入し、人を雇用し賃金を支払う。

お金(G1)-資材(W1)
お金(G2)-機材(W2)
お金(G3)-雇用(W3)
G(=G1+G2+G3)ーW(=W1+W2+W3)

結局、この交換は、等価交換である。そして、この商品を売ると

GーWーG’(=G+α)

資本主義のマジックでαだけ「お金」が増加する。資本主義ではこのシステムが際限なく繰り返される。資材や資源はその使用価値を求めて等価交換したものである。ところで人件費、労働の使用価値とは何だろう。労働の使用価値は同じような仕事を継続的に続けることである。すなわち、労働し、食事し、家に帰ってテレビを見て、風呂に入ってリラックスして睡眠をとり翌日会社に行って再び労働をする。自己再生産する費用が労働の使用価値である。等価交換を基本として考えた場合、αは労働から生じた価値と考える他ない。このαは剰余価値と呼ばれる。現在ではこの考え方は資本主義にとって都合が悪いから、表面上、剰余価値は利潤・配当あるいは地代・利子という形態として、賃金とあわせて「所得」という総称で概念化され本質が隠されることになる。実際には、余剰価値は労働者によって作り出された価値であり、この剰余価値を雇用費用に加えたもの(W3+α)が労働の価値である。そう考えて定式化すると。資本主義のマジックは余剰価値を曖昧にして表面上見えにくくしたマジックだった。

お金(G1)-資材(W1)
お金(G2)-機材(W2)
お金(G3)-雇用(W3
支出:G-W(=W1+W2+W
収入:      W’(=W1+W2+W+α))ーG’(=G+α)

このマジックは、現在ではじゃぶじゃぶな「お金」を使った株や不動産の投機に使われミニ・バブルの様相を呈している。抽象化された「お金」は「お金」を求めて永遠に増え続けようとする。

千代田図書館へ~散歩「学生時代の思い出」

アベノマジックの続編はまだ、論理構成が完了していないのでしばらくかかりそうだ。とりあえず、連休中は足を鍛えることを目的として散歩することにした。

今日はつれあいと千代田図書館へむかった。往きに水道橋をとおってしばらく進むと、なつかしい「~白十字」という看板にであった。きれいな教会風建物になって面影もないが、この付近にあったはずだから、おそらく「白十字」の進化形なのだろう。思い出すと、学生時代に神田の古本屋街をぶらぶらして神保町付近の喫茶店「さぼ~る」や神保町と水道橋の中ほどにある「白十字」という喫茶店で休んだものだ。「~白十字」からさらに進むと、何度か吉本隆明の「試行」を買った「文泉堂」があったはずだが、1Fは「てもみん」になっていて、3Fに「文泉堂出版」という看板があった。これも本屋の進化形なのかもしれない。神保町の交差点を右に曲がって、しばらく進み高速道路がある。この下をくぐり、10mほど進んで、「カフェ・ド・クリエ」を左折すると、細い路地があって、この左手に「九段下寿司政」がある。ここの「こはだ」は絶品だが高いから、ここを素通りして右・左が工事中の防護壁に囲まれた路地を進むと、目の前が開け、九段会館の前に出る。ここを左折して数十メートルで千代田区役所に到着する。この9・10Fが千代田区立図書館だ。自宅からほぼ2kmの距離にある。図書館で雑誌を見ながら休んでトイレに行こうとしたら、吉本隆明展をやっていた。やさしさと厳しさが混在した見慣れた写真が数枚飾られていた。大げさに~展などというには恥ずかしいほどのものだったが、なつかしい思い出にふれたように思われた。今回の散歩は思いがけず、「学生時代の思い出」がテーマだったようだ。