尼崎脱線事故報道にみるもの

福知山線尼崎の脱線事故はものすごいものであった。同じようなことをくり返すようにみえる日常もくりかえしではないことを証明している。事故 は必然で も、人間個々の生命は生まれるのも死ぬのも偶然でしかないのかもしれない。もしこの生死を必然に置き換えるのなら、宇宙のゆらぎというほかなさそうにもお もえる。
ところで、この事故の報道はここ二、三日の間に新しい局面を迎えている。5/3のインターネット版朝日新聞には、

脱線した快速電車に、JR西日本の運転士2人が客として乗り合わせていたことがわかった。いずれも救助活動に加わらずに出勤し、通常通りに乗務していた。同社は「救助にあたるべきだった」として、処分を含めた対応を検討している。

また、5/5インターネット版朝日新聞には、

JR宝塚線の脱線事故が起きた4月25日、JR西日本天王寺車掌区の区長ら社員43人が、ボウリング大会を催していたことがわかった。同社は記者会見で事実関係を認めたうえで、「中止すべきだった」として区長らの処分を検討している。

というようなことが書かれていた。他の新聞も同じような論調だ。いつもながら、やんなっちゃう情況だ。
相対的でしかない個人の倫理観を普遍的なものとして扱うやりかたには必ずどこかにウソが入っている。新聞記者だって事故の記事をかいたあとに仲間とのみに 行って、ゲラゲラ笑っていることだってあるし、彼女とデートして幸せな気分になることもある。われわれだって、事故のことを悲惨だと話した直後に、冗談を 言ってゲレゲラ笑うことだってある。JR職員だって同じだ。事故の後、会社に行こうが、助けようが他人がとやかく言う問題ではない。まして、ボーリング だって同じで、これを理由に処分なんてふざけた話だ。
確かに、このような事故の報道は「庶民的感情が後押ししている」ためにどこの報道機関でも 論調が同じになるように思えるが、むしろ報道機関が被害者の「持って行き場のない感情」の代弁者を気取り、正義を装っているから、庶民も同情的あるいは反 論できないようにならざるを得ないのではないだろうか。
庶民は半分は被害者やその家族に「かわいそうだ」という同情を持ち、半分は野次馬として の「好奇心」に突き動かされていると考えた方が正しそうだ。庶民のこの2つの情動を報道機関はうまくついているように思われる。被害者へのインタビュー で、加害者としてのJR西日本への怨念を演出し、庶民のなかにある野次馬としての罪の意識に、「お前もJR西日本の倫理観のない加害者と同類か」という踏 み絵を踏ませているから、庶民は罪の意識を感じている分だけ報道機関の「許せない報道」の問いかけにほとんどが後押しするように見えるのではないか。
素直に自分が野次馬でしかないことを認めれば、JR西日本の社員の行動も自分たちとあまりかわらないと認識でき、報道機関のバッシングは正当性を欠いていると判断できるものになるとおもわれる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です