天皇の退位と堀北真希の引退

天皇は象徴として生きることを強制されている。肉体は現実の生活を生きる人間としてありながら、ほとんどの生活は抽象化された象徴天皇として対外的には生きなければならない。この2つに引き裂かれた精神の苦痛は計り知れないものと思える。先代の天皇は大戦で死んでいった人々の重さを抱え込んで、人間として生きながら象徴となる苦痛を自らの罪として受け入れて生きた。天皇の生き方はヘーゲルのいう「自由」な表現が奪われていることを意味し、「自由」と「承認」の矛盾を解消することの不可能な状態に落とし込まれている状態といえる。このような状況で天皇が自ら「退位」を求めるのは引き裂かれた精神の悲鳴であり、おそらく現天皇以降の天皇は耐え得る精神構造を持ち得るとは思われない。本当に「人間宣言をした天皇」個人の「幸せ」を考えるのならば、そろそろ天皇を返上し、普通の生活をおくることが、「自由」と「承認」の観点からも最も「幸せ」となると考えられる。天皇を象徴天皇といつまでも考えることが少しも天皇個人の「幸せ」を考えていないことを意味している。

堀北真希の引退報道が3月初めころにあった。若き女優や芸能活動する人たちが最近引退することが増えてきたという。この現象の原因は「抽象化された生」において、「自己表現」として「自由」を獲得できずに、単に「承認」得るためだけの「虚構の生」を生きざるを得ないことにある。「現実の生」において「自由」と「承認」が両立できていたとしても、「抽象化された生」は天皇の場合と同じく精神的に耐え得ないものとなることが容易に想定できる。この矛盾の解消にはおそらく天皇の場合と同じく「現実の生」で「自由」と「承認」の関係に立ち返るしか方法がない。これが引退という道を選ぶ理由だろう。

私たちの生活において、「表現」することは基本的に「自由にすきなことをする(労働する)」ことであり、よりよいものをつくったり、考えたりして、さらによい「表現」をすることで、結果として他者に認められたり、自分で満足したり、より普遍性に近づけば「承認」されたことになり、結局「自由」と「承認」の矛盾は克服されたことになる。

 

Nへ~ヘーゲルの「自由」と「承認」

ヨーロッパでは、思想的課題として「自由」が常に大きな位置をしめていた。ルソーやカントは「自由」は元来持っている本質としてとらえ、ヘーゲルは「人間は歴史と無関係に自由な存在ではなく、『時代の精神』が徐々に変化していく歴史の中で次第に自由を知っていく過程」だ、として「自由」の意味を徐々に理解していく存在であると考えた。また、一方で人間は個体としては全くの一人であるが、一人では生存できないことは自明である。この矛盾によって、個体の「自由」を求めながらも少なからず相互に「承認」しながら生きることを強制されてきた。ヘーゲルの『時代精神』は幼年期、少年期、青年期、大人へと至る成長過程で『個体の精神』に反映され、「自由」と「承認」の葛藤の中で(弁証法的に)形を変えながら当時の最も進んだ形態へと進化していくとした。この『時代精神』とはアダムスミスの考え方に代表される考え方で「自分自身の利益を考究していくうちに、 かれは、 自然に、否むしろ必然に、この社会にとってもっとも有利な用途を選考するようになる」という資本主義の基本原理だ。このような『時代精神』をヘーゲルは『個体の精神』に反映させ「個人の内なる個性を発揮して自己表現することで、製品(作品)を現実の世界に生み出す。自分の個性をひたすら表現することが大事だと考えている(「自由」)から表現できたことで、満足できると考えている。しかし、表現されたものは外在するから自身でも客観的に見ざるを得ない。次第に自分の製品を客観的に見ることができるようになり、他者や社会からの批判(「承認」)も加わって、より「ほんもの」の(普遍的な)作品を創ろうと努力するようになる。」と考えた。そして、結局「このような行為や表現は個々人の自由と批評を含んだ社会的行動になっており、自由の欲求と承認の欲求は矛盾せずに結びつく。」と考えることで、最終段階において、「自由」と「承認」の相克は止揚されたことになるとした。

(自注)ヘーゲルの『時代精神』はギリシャ・ローマ時代からはじまり、アジア的段階やアフリカ的段階は未開時代として無視している。このことに対し三木成夫はちょうどヘーゲルのアダムスミスのように、個体の未開時代を脊椎動物の発生と進化そして人類の発達と3歳までの個体の発達を関連付けた。また、吉本隆明もヘーゲルのように個体の未開時代の精神を「アフリカ的段階」と位置づけ、分析した。