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Nへ~ヘーゲルの「自由」と「承認」

 ヨーロッパでは、思想的課題として「自由」が常に大きな位置をしめていた。ルソーやカントは「自由」は元来持っている本質的なものとしてとらえ、ヘーゲルは「人間は歴史と無関係に自由な存在ではなく、『時代の精神』が徐々に変化していく歴史の中で次第に自由を知っていく過程」だ、として「自由」の意味を歴史的段階として徐々に理解していく存在であると考えた。また、一方で人間は個体としては全くの独立した存在であるが、一人では生存できない存在であることも全く自明である。この矛盾によって、個体の「自由」を求めながらも少なからず相互に「承認」しながら生きることを強制されてきたといってもよい。ヘーゲルの『時代精神』は幼年期、少年期、青年期、大人へと至る成長過程で『個体の精神』に反映され、「自由」と「承認」の相克の中で(弁証法的に)形を変えながら当時の最も進んだ(?)形態へと進化していくとした。この『時代精神』とはアダムスミスの考え方に代表される考え方「自分自身の利益を考究していくうちに、 かれは、 自然に、否むしろ必然に、この社会にとってもっとも有利な用途を選考するようになる」という資本主義の基本原理と類似している。このような『時代精神』をヘーゲルは『個体の精神』に反映されるものとして「個人の内なる個性を発揮して自己表現することで、製品(表現されたもの)を現実の世界に生み出す。このとき個人は自分の個性をひたすら「自由」に表現することが大事だと考えており、表現することで満足できると考えている。しかし、表現されたものは外在する(自分の外に出てしまう)ことになるから自身でも客観的に見ざるを得ないことになる。その結果、他者や社会からの批判(「承認」)も加わって、より「ほんもの」の(普遍的な)表現(作品や製品など)を創ろうと努力するようになる。」と考えた。そして、結局「このような行為を含む表現は個々人の自由と批評を含んだ社会的行動になっており、自由の欲求と承認の欲求は矛盾せずに結びつく。」と考えることで、最終段階において、「自由」と「承認」の相克は止揚されたことになる考えたように思える。

(自注)
 ヘーゲルの『時代精神』はギリシャ・ローマ時代から始まるものとし、アジアやアフリカの自然を原理とした段階を人間の「未開時代」として『時代精神』の発展段階から取り除いている。このことに対し三木成夫はちょうどヘーゲルの『個体の精神』における個体の未開時代をさらに細かく分析し、脊椎動物の発生と進化に対応させ、その後の人類の発達と個体の発達を関連付けた。また、吉本隆明はヘーゲルのいう『時代精神』の未開時代を一つの段階としてとらえなおし、「アフリカ的段階」「アジア的段階」と位置づけ分析した。

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