• さようなら! 太陽も海も信ずるに足りない

Sの死と「死の宣告」

 我が友、Sさんが2月14日逝去されました。さようなら。

 2月19日通夜に行ってきました。遺族の方の話では、2年程前にがんが判明し、余命2年半と宣告されたようです。しかし、本人は「自己の死」を了解できず、苦悩し、カウンセリングを受けていたそうです。40年ほど前、私の姉が亡くなりました。姉は胃癌から骨髄に転移し、「あと長くて半年」と医師に宣告されました。当時の医師は本人に「死の宣告」を行いませんでした。医師が宣告の苦痛を避けているともいえますが、「死」の宣告は家族の選択で、ということが一般的でした。母がいないとき姉に「本当のことを話して」といわれましたが、言葉に詰まって、結局本当(医師の宣告が本当かどうかなどわかりません。)のことを言えませんでした。でも、姉はそれ以降一度も「本当のこと」を問いただすことはなく、母の将来を気遣って自分が死んだ場合に年金はもらえるから心配ないということをいっていました。姉は感受性が豊かな人でしたから、弱っていく身体の中ですべてを察知していたように思います。

 元来「死」は本人以外経験できないものです。私たちの「死」の了解は「他者の死」の了解にすぎません。「自己の死」を宣告されても経験できないものを了解することは難しく思われます。今では本人への「宣告」は普通になっていますが、それが本当に意味あることなのか疑問になります。おそらく、「宣告」など受けても受けなくても本人は「死」が近づいてきていることを自己の身体との対話の中で、ぼんやりと感じているように思われます。了解とは脳と内臓とのコミュニケーションによる調和で、「腑に落ちる」ことです。これには時間がかかるものと考えられます。内臓の崩壊が始まったばかりの時にはまだ内臓は「死」を感覚できません。脳は客観的に「他人の死」を「自己の死」と同値しようとしますが、内臓が納得しません。徐々に内臓の崩壊が進むと内臓感覚も不快感を増大させます。そして、不快感はおぼろげながら「自己の死」を了解せざるをえない情況に至る、と思われます。

 かなりしんどい話ですが、家族や近親者ができることといったら、「宣告」を受けとり、死にゆく者の「死」を了解し、伝えるかどうかを判断し、すべてを飲み込み、支える覚悟で対処する他なく、できたとしても、「自己の死」の苦悩をほんの少し緩和させるだけなのかもしれません。

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