二つの勘違い

サンティアゴとジャカルタで二つの勘違いがあった。一つは小泉純一郎首相と胡錦涛国家主席の間のやりとりで、胡国家主席「現在の中日政治関係で出現している困難は、日本の指導者が靖国神社に参拝していることだ」と述べたことである。もう一つは石原慎太郎都知事と張茅・北京副市長の間のやりとりで、石原都知事が「中国は(地球温暖化防止の)京都議定書に加盟していない」「東京が大気汚染防止に積極的に取り組んだから政府が動いた」 といった発言である。
この二つの発言はちょうど裏返しの構造にあって、同時にこのような発言があったことに興味をもった。
胡錦涛の発言は中国が個人の思想・宗教よりも上位に国家意志がある全体主義の段階であることの証である。以前この「瘋癲老人のつぶやき」にも書いたが、小泉純一郎は「日本は個人の思想・宗教の自由が認められる社会で、私個人の自由意志で靖国神社に参拝している」と国家の段階の違いを明確にいうべきである。
また、石原慎太郎の発言は逆に中国では国家意思に反して地方の意志が表出できる段階に無いことを無視し、あたかも自分が国家意思を形成させたようにいっているが、これは個人の意志が国家の意思に反映させうる段階に至った日本の状況においてのことである。結局この発言は、石原慎太郎が日本にいるからできるということの自覚も無くなされたもので、彼が自己相対化できていないことを示しているにすぎない。このようなご都合主義の人間は、中国にいたなら、中国政府の方針を忠実に守って発言するにきまっており、いかにこの発言が無責任かを示している。

この中国・日本の指導的立場の人間の二つの発言は、双方の国家意思の相違(空間的相違)は歴史的段階の相違(時間的相違)という考え方(歴史認識)の欠如による勘違いといえるだろう。

イラク出兵と香田さんの死

イラクで人質になっていた香田さんは首を切断され、遺体となって発見された。本人の「イラクを見てみたい」という意志は死という結果に終わった。
日本の一若者の意志を実現するには余りにもイラクの現実が重すぎたということなのだろうか。また、この若者を救うことができない日本政府はなんと軽いことか。救うことのできるはずの一国民も救えないで、イラク国民を救うなんてことは到底無理な話だ。もう形だけのイラク復興支援などといって出兵するのはよした方がいい。どうしても出兵が必要なら、油田の利権の確約を米国から取り付け、利権がこれだけ確保できるから出兵する、この出兵によって国内景気がどれだけ上向けることができるとはっきりいえるようにする以外ないだろう。そして、香田さんのように人質になってしまった場合、撤兵すれば利益がこれだけ損失するから、撤兵できない、そのかわり、殺害されたならば、家族に損害補償として、生存時に受け取ると想定される所得の全額を補償する、というくらい言わなければ、出兵と人質見殺しとのバランスがとれないだろう。(2004/11/01)

その後、友人からのメールで、香田さんの遺体搬送費用は遺族が負担するように官房長官が言った、ということを聞いた。出兵が国家利益のためなら、撤兵しないことで殺害された香田さんの遺体運搬費用から彼の損害賠償まで、全て国家が負担するのが論理的帰結といえる。(2004/11/03)

ある詩人の面影

図書館で「街ぐらし御茶ノ水神田神保町」という本を手にとってみていたら、私が学生時代友人の影響で現代詩を読み出した頃に衝撃を受けた詩 人、田村隆一のことがちょっと記されていた。懐かしくておもって読むと、田村が常宿として利用していた「山の上ホテル」での逸話で、ここでも破天荒な無頼 漢ぶりを遺憾無く発揮していたことがよくわかる。田村隆一の酒好きは有名だが、ホテルの副支配人の談として次のようなことがあったという。

酔っ払った田村が、フロントの中に入り込んで酒を飲み始めたり、ロビーのソファーで「枕を持ってきてここで寝よう」とくだをまくさまを竹若弘眞副支配人は折に触れ思い出す。「本当に面白い人でした」
ある時など、結婚式に出席するために出かけるという田村にワイシャツを貸したこともあった。例によって飲んでいたため、着ていたワイシャツがしわだらけになっていたからだ。ところがクリーニングしたワイシャツを手に部屋で着替えに戻った田村は、いつまでたても出てこない。心配して様子をうかがうと、着替えの途中で倒れ込んで寝ていたという。着替えたワイシャツも当然しわになり、また新しいワイシャツを貸す羽目になったのである。

私が以前読んだ田村の随筆にも、酔っ払ってタクシーに乗り突然藤を見たくなり、「牛島に藤を見にいこう」といったきり寝込んで、牛島までタクシーで行った 話などを覚えている。だが、不思議なことはどこでも、どんなに酔っていても田村は覚えているということだ。言いかえれば、どんなに酔っはらっていても、ど こか覚醒しているということだ。これが詩人の詩人たる由縁かもしれない。

言葉の垂直性にこだわった詩人が亡くなって既に6年(平成10年没)になる。酒が弱かった父より3つばかり若い詩人は、不思議にも父の姿とどこか重なる。

 

 

「息さわやか外来」とは

先日、つれあいに「口臭が強い」といわれ、医科歯科大学の「息さわやか外来」にいった。名前が「さわやか」だが「高齢者歯科外来」と同じ受付窓口になっている。「ああそうか、息がくさいのは高齢者なのか」とへんに納得して受診した。率直にいえば「口臭外来」だが、なんとも「さわやか」なネーミングなのだろうか。次回はガスクロで息の成分を分析して原因をつきとめるらしい。私の体は大気汚染物質の塊のようにもおもえてくる。オオゴトになってきた。

プロ野球の初ストライキにおもうこと

昨今のTV報道は「初のストライキ」で喧しい。オーナー側の経営危機に対応する合併推進と、選手会側の合併による「リストラ」危機を先 取りし た合併反対の交渉決裂が、先週の土日選手会側の「ストライキ」というかたちで現れた。企業の合併や解散は最終的には経営者の判断である。とくに、「リストラ」はしないと表明している以上、異議があっても、労働者はいかんともしがたい。労働運動は、企業内条件闘争だから、企業の外側の問題には、対応できな い。この意味では、選手会側の「おもいちがい」の「ストライキ」である。一方、企業の外側からこの問題を考えてみると、企業が合併するのも解散するのも自 由とするなら、新規参入も自由と考えるのが普通である。新規参入を組織として阻害することはまさにカルテルで、独禁法の問題なのかもしれない。とくに今回 に関してはライブドアや楽天などの新規参入希望があるにも関わらず、理由をつけて参入を阻んでおり、このことからは、決まったパイをみみっちく仲間内で分 け合っている姿しか見えてこない。今まで、企業利益につながる努力も何もしてこなかったつけで企業合併や解散にいたる責任はオーナー自身が負わなければな らないし、それを選手のリストラとして押し付けることは責任の転嫁である。労働市場が閉鎖的であればあるほど経営責任は重い。この責任から逃れるには、最 低限企業参入を自由にして、労働者の企業選択を自由にするほかにはないであろう。

このように考えると、今回のストライキは労働運動のストライキと考えるよりも、閉鎖性企業集団の内部告発と考えた方がいいのかもしれない。

宅間死刑囚処刑の矛盾

宅間死刑囚が処刑された。宅間は捕まったときから判決に至るまでの言動を見る限り、自己否定の極限として小学児童を殺害したようにおもわれる。なぜ自己 否定をあれほど強烈にもちつづけるかはあきらかになっていないが、根源的には「おまえなんか生まれてこなければよかった」という周囲の暗黙の感情が乳児期 から刷り込まれた結果、無意識の中に生じた宅間のせめてもの反撃としての怒りによるもののようにおもえる。もし、宅間死刑囚が「おまえなんか生まれてこな ければよかった。」という抑圧を内向させて素直に受け入れれば、自殺となって現れただろう。しかし、外向して、児童の殺害として現れてしまった。結局、宅 間被告の行為は自殺の裏返しであったと見ることができる。このように考えると宅間の処刑は、単に自殺に手を貸しているだけのこととおもえる。TVなどで は、処刑が当たり前のような言動が飛び交っているが、処刑を認めることは、宅間の自殺を認めることで、ひいてはその裏返しとしての児童殺害を認めることに 他ならない。この矛盾に気づいているヒトは少ない。

吉本隆明『戦争と平和』を読む(2)

前にも書いたが、『戦争と平和』は3部構成で、その第2部は「近代文学の宿命-横光利一について」の1979年全作家全国大会講演内容である。横光利一を2つの観点からとらえている。一つは横光の小説の作法ともう一つは「西欧の文化と明治以降の日本の近代とどこがどういう食いちがいが生まれてきたのかという問題の理解の仕方」ということである。小説の作法にはあまり興味が無いから、「西欧文明と日本の近代」の問題だけをみると、次のようになる。

 文学的長寿の幾つかの処方箋は言うことができます。人間の、自己の内面の無限性というようなものを追求していくことは苦しいですから、特に日本の社会では今も苦しいですから、これを途中で止めて自然とどこかで融和するみたいなところに自分の文学をもっていければ、多分、生き延びられるのではないかとおもいます。特に人間の内面性、個人の内面の無限性を確信するためには、誰もそれを理解する人がいないということと、もし、理解するものを想定するなら唯一の神である、と目に見えない神のようなものである、とそれだけは理解する、それ以外は誰も理解してくれないということを、様々な意味で貫かなければなりませんから、依然として苦しいだろうとおもいます。西欧では当然の伝統だからやっているだけであって、われわれはそうじゃない伝統の中にいるわけですから、貫くのは苦しいわけです。だから、必ず、老大家として生き延びている作家は、自然との融和、あるところでは仲良くするところへ行きます。
ただ、どう考えてもこの処方箋は気にくわないんだと考える限りは、やはり依然として問題を抱え込んで いかなければなりません。横光利一がぶっ倒されて敲きつぶされてしまった問題は大なり小なり、自分の中に抱え込んでいかなければならない。それは日本の近代文学の宿命であり、批評の根本的な課題であるように僕にはおもわれます。
 ヨーロッパの文化が世界普遍性を持つ現在、「内面の無限性」への探求は必然である。しかし、日本文化の中では、この無限性に耐えることが難しく、現在生き残って書き続けている文学界の老大家は、近世までの文化である花鳥風月の自然観の中に逃げ込んでいる。そして、そこから得られる「やすらぎ」のなかで自己保全を謀り、自閉することで、問題の顕在化を裂けようとしている。一方、そこからはみ出さざるをえない者たちは、文学的に自壊していくほか道はないという宿命を背負わされていると理解できる。

金原ひとみ『蛇にピアス』を読む

昨年春の芥川賞を受賞した作品。若い女性が2人受賞したことで評判になった。読みたいとはおもっていたが、さすがにこの本を買う気力はなく、図書館で借りられるまで待ていた。昨年は図書館でも予約が殺到し、借りられなかったが、夏休み前、学校の図書館で見つけて、おそまきながら読むことができた。
綿矢りさ『蹴りたい背中』は今年5月頃に同じく図書館で借りられたが、この2作品は現代の若き女性の「こころ」のありかを鮮明に反映しているのかもしれない。
思春期の一時期に、内向化した感受性が両作品共に鮮明に表現されいる。『蹴りたい背中』ではクラスの仲間から疎外されて「余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌」という感性が素直に表現されている。また、『蛇にピアス』では、主人公ルイと恋人アマ、彫師シバの性的な関係のなかで、社会や家族を切り捨てたことによって得られた感受性が自虐的に表現されている。綿矢は、若くして作家としての道を歩み、自分の心情をもう一つの視点で冷静に測る方法を獲得している。金原は、自虐的な自己を無意識的あるいは意識的にに引きずって生きてきたためか、他者との心的関係性に固執しない渇いた視点から作品を描いている。そして、金原は「私はずっと何も持たず何も気にせず何も咎めずに生きてきた。私の未来にも、刺青にも、スプリットタンにも意味がない。」として、自分の作品そのものにも絶望している。しかし、作者の観点とは裏腹にビビッドな生への渇望がスプリットタンのための舌へのピアスや刺青などの自虐的行為の中に感じてしまう。
これらの作品では、個たる人間が疎外されて行き着く先が共同性や家族ではなく、対なる性的関係性に収斂しているように見える。当然といえば当然である。ここに共同性に抑圧され続け、家族には欺かれ続け、疲れ果てた現代の若者の姿がある。
これほど自由な表現のできる現在においても、戦時中に抑圧された体制の中で、社会性を捨てて内向化した作家たちの傾向と同じような傾向が見られる。それだけ心的抑圧が大きくなっている現われでもある。

養老猛司『 バカの壁』を読む

養老猛司の『バカの壁』を学校の図書館で借りることができ、読んだ。彼は、三木成夫の「内臓」を「身体」と意識的に読み替えて使っているように思える。人生訓を中心にしたためか、突込みがたりないのはしょうがないとして、三木成夫からはみ出す議論はほとんどない。たぶん、三木成夫を超えられないと自分で判断しているのではないか。もう少し脳と身体(内臓)の係わり合いを追求すると面白くなりそうな気もする。単に、「身体は脳の入力装置」では、認知論の域をでないものになっている。