ブログの再開

3年ぶりのブログです。忙しい日々が続いています。年を重ねるごとに体の自由が少しづつ奪われ、同じ程度の忙しさでも、負担が大きくなります。4年ほど前に脊柱管狭窄症で手術した部位に細菌が取り付き、入院せざるをえませんでした。一月半ほどの入院で退院できましたが、細菌が取り付いた椎間板はすっかり破壊され、椎骨がくっつき二つが一つになってしまいました。それがきっかけになった訳ではありませんがブログを書く気にはなかなかなれませんでした。それ以降大学時代の友人とも疎遠になり、自分を解放する場所がなくなると、自然とブログを始めたくなるようです。今後は折に触れ、書き込むことにしたいと思っています。

大阪出張~環境問題とは倫理の問題?

仕事は40人ほどの人たちと議論し、環境にかんする理解を深 めることだ。はじめに6~7人のグループで、関心のある環境問題について話し合ってもらい、その内容を代表者が発表し、全員で討議する方式をとった。議論 していると、代表者の意見の多くは環境問題を解決するには個々人の倫理観の育成が最も重要と考えているようだ。

たとえばゴミ問題では、ゴミの量を減らす、地球温暖化問題では電気や石油ストーブなど燃料や車のガソリン消費を減らす、などの倫理観を学校教育、社会人教育で身につけさせる必要がある、と考えているのだ。

おそらく、ほとんどの人たちに環境問題の解決法を問えば、同じような答えが返ってくるように思う。現在の環境問題は、我々の普通の生活が環境破壊 につながることを報道や教育で知っているからだろう。われわれ自身が環境に「いいこと」をすことがひいては全体の環境問題を改善することにつながると考え ているからだ。そういった意味では教育・広報宣伝の結果としての倫理観の育成や教育はすでに十分行われているといえるだろう。
しかし、ほとんどの人がそのように考えているにも関わらず、ゴミ問題や地球温暖化の問題は、いまだ解決を見ていないし、地球温暖化問題では政府間交渉もままならない状況が続いている。なぜか?

 

わかっているけれども、できないのだ。やろうとする誘因、 きっかけがないのだ。だから、特に制約がなければ普通にゴミを出し、ゴミ問題が大変だと言われれば少しは削減しようと考える。一方、ガソリンや電力の問題 も、特に指示されていなければ、自己の経済的範囲で使用しているが、電力不足 で大変だから「みなさん節電しましょう」といわれれば、その範囲で協力しようとする。これは「生活の倫理」ともいうべき倫理なのだ。

また、もうひとつの倫理もある。それは、個人にぎりぎりの選択が迫られた時、たとえば、召集令状が来て出兵し、死を覚悟の突撃を命じられた時、避 けられない自分の死が「類の生」につながると覚悟して突撃する時の倫理である。これは、おそらく、生命が誕生し、自然界から己を細胞膜で隔離したとき、必然 的に背負ってしまったDNAの記憶で、「生存の倫理」ともいうべき倫理なのかもしれない。

この2つの倫理のうち、「生存の倫理」はだれもが生まれたときからDNAに組み込まれた倫理で変えることのできない絶対的な倫理だが、「生活の倫理」は個々人が経済活動を行っている範囲でもちうる相対的な倫理だ。

おそらく、環境問題では「生存の倫理」の選択を迫る状況にはなかなかなりにくい。自分の行動でゴミを多少多く出たとしても、多少地球温暖化に動い たとしても、類の滅亡にいたる姿は見えてこない。そのため、普通の生活の範囲で環境問題を考えるとき、個々人の判断基準は「生活の倫理」に基づくものにな る。しかし、このばらばらな誘因のない「生活の倫理」に頼っても環境問題の解決に至ることはありえそうもない。

環境問題は、まず、工場な どの事業者がばい煙などを排出し、住民に被害を与える図を原型として考えるとよく見えてくる。なんの規制もなく生産活動を行う自由市場経済の場合、企業は 自己の利益の損益分岐点まで生産を行う。一方、市民は工場のばい煙の影響で肺などを患い病院にかかったとしよう。このとき、病院に係る費用や、これが原因 で休業した場合の費用は、患った市民の自己負担となる。結局、工場稼働による利益の一部は市民の健康を犠牲にして得られているのだ。しかしこの費用は企業 では顧みられることはない。これは経済学的には外部不経済といわれるものだ。市場の外部で発生した費用で「市場の失敗」によってもたらされたものである。 これは倫理の問題ではなく、明らかに経済上の問題だ。

最近の環境問題、ゴミや地球温暖化などの問題では、今までの環境問題と違う側面が出 てきている。排出者の中心は市民自体なのだ。さらに地球環境問題ではもう一つの面が付け加わる。排出による影響が数十年~数百年に至るタイムラグを生じ、 空間的にも地球全域におよび、排出者が直接的に自分の影響として認識するには分かりにくい構造をもつことだ。

一見、排出者が市民自体であ ることから、環境問題の原型が崩れたように見えるし拡張された時空間でわかりにくくなっているが、排出者がいて、その影響をうける者がいる。この両者の間 には、排出者は利益を受け、影響を受ける者は損失を受ける利害関係が発生している。なんら原型と異ならない構造をもっているのだ。

受益者はその影響である損失を支払う経済的責務がある。なぜなら、その影響は元来生産コストのはずだからである。生産コストをただ乗りしてほくそ笑んでいるわけにはいかないのだ。そしてその生産コストは市場を通して、市民である消費者や生産者が負担することになる。

実際にゴミを処理するには相当なコストが支払われている。平成19年度の小金井市の場合総額で30億円弱で一人当たり年間2万5千円程度になるそうだ。こ れは税金から支払われているのだが、税金は給料の天引きであまり意識がない。この金額を「見える化」してゴミの有料化が進めば、ゴミを減らす誘因にもなり 効果的な対策となる。(そのかわり、徴収しているゴミの税金分は徴収をやめる必要がある。)また、地球温暖化を止める必要があるならば、輩出するCO2に コストを支払う構造が必要となる。いわゆる炭素税だ。細かい話は省略するがCO2削減に必要な炭素税は、私の計算やノードハウスの計算では7~25ドル /1tCとなった。ガソリン1Lあたり0.3~1.5円程度の額となる。

以上、環境問題は交換経済の中で生じている限りにおいて倫理の問題ではなく、経済問題である。

最後に端折った感があるが、とりあえずここまで

参考として以下に小金井市のごみ処理経費を掲載する。これは次のURLより転記したものだ。http://gomizero.net/cost.html

小金井市のごみ処理経費

経費内訳 平成17年度 平成18年度 平成19年度
燃やすごみ処理経費 5億197万9千円 4億7380万5千円 9億2537万9千円
燃やすごみ収集運搬費 1億1618万6千円 2億1260万4千円 3億3385万4千円
6億1816万5千円 6億8640万9千円 12億5923万3千円
焼却灰処理費用 3億超? 3億3860万3千円 3億超?
ごみ処理費用総額 19億4648万2千円 21億8777万6千円 28億158万8千円
ごみ処理費用総額/人 1万7千円 1万9千円 2万5千円

大阪出張

出張中に倒れた4月以来の出張だ。ANAで関空につき、乗り換えがやっかいなので、リムジンバスで、第一ホテル(マルビ ル)まで一気に行ってしまう。ちょっとチェックインには早すぎたので、荷物を預け、とりあえず1階のスタバで休憩、「サラダラップ、イングリッシュマフィ ンソーセージ&オムレツ」+スターバックスラテ合わせて1000円弱、結構な値段だ。コーヒーも種類が多く、「こだわり」の現代には適合しているのかもしれないが、私には何が何だか分からない。学生の頃よく喫茶店にいったが、あの頃は単純で、コーヒーというと「あったかいやつ」と「つめたいやつ」ということぐらいしかなかったように思う。まあ、しょうがないか。

時間がまだあるので、梅田の地下街の探索に出かけた。元気な時なら、大阪城や難波などに向かうところだが、歩きすぎると足が重くなるので、翌日の仕事のことも考え、近場で時を過ごすことにした。

第 一ホテル(マルビルというらしい)の地下2階が梅田地下街と接続していて、大阪駅方面の矢印を目当てに進む。阪神梅田駅の入口を左に見ながらさらに進む と、階段があり、上って少し進むともう大阪駅だ。向かって右側の大丸に入り、エスカレータで2階に上り、休憩所を探して回りをみると、宝石売り場の奥の窓 際に四角い大きな腰かけがあり数人が座っている。そこで座って携帯パソコンを出し、光リンクで接続して、今いる場所を確認。近くにヨドバシカメラがあるの で、そこに向かう。駅舎の反対側にあるので、駅舎を越え右に折れて地上に降り、歩道を渡って、ヨドバシカメラに到着。大阪に来てなんでヨドバシカメラなん だ、と思いながら入る。1階は携帯電話とパソコン売り場があり、いろいろ最近の傾向をみてあるく。そそそろ2時になるのでチェックインすることにした。帰 りに地下に入ったら、方向が分からなくなり、あとから考えると御堂筋を南下したようで、筋違いで、迷ってしまった。梅田地下街は迷路のように入り組んでい て、知らない土地の地下には入らないのが良いかもしれない。地上に出て、あたりを見回すと、ちょっと離れた後ろに第一ホテルの丸いビルが少し顔を出してい て、そこを目当てに進んだ。およそ1時間半ほどの時間つぶしだった。

『真実を口にすると世界は凍る』〜法務大臣辞任と国境問題

最近、気になったことが2つほどある。どちらも「真実を口にすると世界は凍る」といった思想家の言葉のとおり、「真実」を口にして首をきられた政 治家や、「真実」を口にすると世界を凍らせてしまうので、「真実」を言えない評論家やコメンテータあるいはニュース解説者と称する者たちのことである。

民主党の法務大臣は、講演会で「法務大臣は、『個別の事案についてはお答えを差し控えます』『法と証拠に基づいて適切にやっております』の2つだ け覚えておけばよい。」というようなことをといって、自民党やその他の野党の「国会軽視だ」という批判や、TVニュースなどの「政治家にあるまじき行い」といった批判の下、結局は管総理に首を切られた。しかし、考えてみれば、今までの自民党の法務大臣などは、何度も国会で彼のような回答をなんども行っていたことからも、自民党が「国会軽視だ」という根拠などどこにもない。ばかな大臣というものは、国会で回答ができるわけもなく、なんとか切り抜ける方策を官僚が考え、これだけ覚えておいてくださいとでもいっていたことを、公にばらしたのだから、自民党などは今までの大臣の権威が大きく損なわれるから問題にしたくなるのも分からなくはない。これこそ、「本当のことを口にして、世界が凍りつき」、首を切られたいい例ともいえる。

また、中国との尖閣列島や韓国との竹島問題、ロシアとの北方領土など国境の問題では、国境の論拠としては、中国や韓国と日本の「日本古来の領土」という考え方と、ロシアの 「現在の支配権の及ぶところが国境」という2つの考え方に集約されそうだ。尖閣列島の問題は、日本も中国、韓国も「日本古来の」「中国古来の」のいう言葉で、自国の領土であると主張している。しかし、「古来」とはいったい何なのだろうか。だれもこの疑問を投げつけていない。それぞれの都合で、ある時代をきりとっ て、この時代から中国のものとか日本のものとかいっているが、もう少しさかのぼれば果たして誰のものなのであろうか。結局、自分の都合に合わせて歴史を切 り取り、「古来」とか「元来」と言っているにすぎない。戦争で決着されることができないとすれば、最終的な決着は限りなく「国境をぼかせる」あるいは「共 有する」ことでしか解決できるわけもなく、そろそろ本当のことを言って、決着の手段を協議始めるほうがいいのではないのか。ところが、すべての報道機関は 「日本古来の領土」として、中国、韓国を侵略者とみなしているし、中国、韓国は「中国(韓国)古来の領土」として、すきあれば、自国の領土として組み入れようとしている。

一 方、ロシアは「現実の政権の及ぶところ」を国境としているため、「古来」「元来」などという言葉は通用しない。過去の歴史を見ていれば、このようなロシア の主張はもっともなことと言わざるを得ない。古来に根拠がないとすれば、国境付近の住民が「我々はXX(日本、ロシアあるいは独立)の方がいい」とでも言 わない限り、現在の権益を維持するほか国境の根拠はないからだ。しかし、このロシアとの国境問題にしても、いずれ自由に行き来して国などを意識することの ない社会に向かって、何をするべきなのかを考える時期なのかもしれない。

TVの解説やコメンテータと称するものたちは、誰もこのことには触れないようとしていない。国家の基本にかかわることは、タブーであり、それゆえ、「本当のことを口にすれば世界が凍る」ことになるからなのだろう。

宮沢湖遠足

飯能から宮沢湖までの遠足は、途中、計画された道筋から加治神社あたりでそれ、山道に入った。山道はよく手入れされた木立が程よい日陰を作り、日射を和らげてくれていた。

私は腰の手術以来、アスファルトの上を2〜3km程度はよく散歩していたが、今回のように山道で、しかも土の上を7〜8kmを歩くことなどなかった。歩 いてみると、比較的歩きやすく、疲れなど感じることはなかった。友人に言わせると私のために楽なコースを考えていた、ということらしい。
30分ほどで宮沢湖に汗だくになって着いた。まだ昼食には早いということになって、湖を一周することになった。湖面にはランダムに船が浮かんで釣りを やっているように見えたが、歩くにつれ方向が変わってよく見ると、釣り船は横一列に等間隔で並んでいて、不思議な気分になった。一列に並んで釣りをするな ら何も宮沢湖でなくても釣り堀で十分なような気がして、宮沢湖の緑に囲まれた風景にそぐわないように思えた。でも、友人の説明で宮沢湖は人工湖だと聞い て、なんとなく納得できた。

「アスペルガー症候群」とはなにか?

ちょっと古いが、4月21日のNHKクローズアップ現代「アスペルガー症候群〜活躍の場を求めて」と4月23日のNHK特報首都圏「”ひとり”が怖い」 は現代若者の精神構造を主題にしたもので、ビデオを見直してみておもしろかった。  最近、新書としては異例のベストセラーを続けている「アスペルガー症候群」、人とのコミュニケーションが苦手とされる発達障害について書かれた本が、サラリーマンたちの注目を集めているそうだ。「自分もそうかもしれない」「KYなどの人が身近にいる」といった観点から読まれているようだ。「アスペルガー 症候群」は「表情」を理解できないなどの脳の機能の一部がうまく働かないことが原因とみられている。職場で対人関係に躓き始めて自分の障害に気付いたとい う人が急増しているという。「私が発言すると相手を怒らせたりする。」「態度がわるいらしいんですよね。自分ではわかんないんですけどね。」こういった一 方で、すぐれた数学的思考力や高い集中力・分析力などを持ち合わせている人も多く、企業ではその能力を発揮してもらうための取り組みが始まっているそう だ。こういった人たちにどう接し、彼らが活躍できる社会をどう作っていくのかを特集したものだ。

「アスペルガー症候群」は知的障害のない自閉症の一つだそうだ。それは先天的に脳の一部が働かないためといわれている。「アスペルガー症候群」の主な特 徴としては、相手の気持ちを推し量れない・会話がうまくできない・極端にこだわりが強い、などの傾向が強いため、他人とのコミュニケーションが難しくな る。「アスペルガー症候群」の人たちは脳の障害によってこうした症状が起きる。「一つのことに集中すると別のことができなくなる。」(電話を聞きながらメ モをとれないなど)なども典型的な症状のようだ。一見して普通の人と区別が出来ないため、親の育て方が悪い、性格の問題だといわれ、障害とは気付かずに長 い間苦しんできた人も多いのだそうだ。最近「アスペルガー症候群」の認識が広がることで、改めて診察を受け障害に気付く人が増えているようだ。
司会者は「人づきあいが苦手な性格とどう違うのか?」と問いかける。正高信男(京都大学霊長類研究所教授)は言葉の意義を字義どおりにだけ受け取る。言葉は使われる場面状況、文脈で意味が変わることが多々あるが、社会的知性に欠けている。皮肉などは全然理解できない人がいる。こだわりが強い、たと えば時間を順守する強い傾向がある。朝は6:00に起き6:10顔を洗う、6:30ご飯を食べる、7:00出勤する。きっちり決めていて1分でもずれると パニックになるといったことがよく見受けられる、と答えた。司会者は、さらに「それでもそのような性格の人はいるのでは?」「障害と障害でないのはどう違う か?」と問いかけると、正高教授は「一つの基準があるわけではなく、この人に障害があるかないかを決めるといったことができない。だれでも多かれ少なかれ 『アスペルガー症候群』の要素を持っている。多面的総合的に判断した時、これらの症候を持っている人は、持っていない人とちょっと違うんじゃないかという 判断が下される。日常生活で人間関係がうまくいかない、上司との間に軋轢がある。ストレスがある。学校で友達が出来ない。だから職場で働くのがいやにな る。といった社会的不適応を起こす、といったことから判断する以外ない。」と答えた。
正高の回答は結局のところ本質的な区別ができないということだ。以前、アスペルガー症候群を扱ったTV放映でレインマンのモデルになった男やヘリコプ ターでパリの上空から見た景色を記憶し、自宅に帰ってから細部まで描く男の実際の姿を見たが、特徴的なのは記憶力がずば抜けてすぐれている点だった。ま た、後天的にもアスペルガーの兆候を示す男もいた。彼は、交通事故で前頭葉の一部を損傷したことで、記憶力が強化されたようだ。このような事実をみると、 明らかに前頭葉は一般の生活をそつなく過ごすために、記憶力を抑制し、統合的な判断ができるように調整しているようにおもわれる。もともとは、誰でもがず ば抜けた記憶力は備わっていて、前頭葉の障害などでなくとも、「こころ」の欲求が強い場合などでは抑制・統合機能が低下して、誰でもアスペルガー的な兆候 を示すのだと考えられそうだ。
また、司会者の「なぜ最近大きく取り上げられるようになったか?」という問いには「現代社会の中で、コミュニケーションの占める比重が飛躍的に大きく なってきたことが原因」と答え、さらに付け加えて、正高教授は、「昭和初年に柳田國男がいっているように、『東日本の山村で働いてる人は単語数10語も口 にしないで生活している』、といっている。一昔前ならコミュニケーションが重要でないといった職種があった。今でもそいった職種を選んで生活する分には社 会不適応にはならない。現在ではそのような職種は片隅に追いやられ、もっぱら他人とのコミュニケーションだけを重視したスタイルになってくる。そうする と、それらが苦手な人はどんどん社会からはじき出される情況になる。」とも言っていた。
これはすぐれた見解のように思われる。一見、現代では自己の「こころ」の表現が自由にできるようになってきたように見えるが、実際には他人の言動を意識 し、自己を抑圧し、コミュニケーションの世界に多くの時間を割くことを要求されるようになってきて、「こころ」が悲鳴をあげ、その逃げ道のひとつとして、 アスペルガー的症状が起こるということなのだろう。
最後に正高教授は「障害というとその負の側面が注目されるが、苦手な部分と表裏一体となって障害を持ったゆえの特異な能力を発揮する。障害の強みに注目 すれば社会の中で十分働ける。周囲が『アスペルガー症候群』にかんして的確な認識を持つことが重要。」と述べ、「『アスペルガー症候群』の人は職場で適当 にということが出来ない。きっちりと、徹底的にというのが原則。やってもらいたいことを明瞭に指示することが大事。社会は異質なものを含んだときに活性化 するし、発展する。『アスペルガー症候群』を排除するのではなく、取り込んでいくことが大事。日本はなにかにつけて横並びの社会、しかし、現在このような 閉塞状況を作り出している。これからは、出る杭は伸ばす、方向性をもつことが大事。」と結論付けた。
『アスペルガー症候群』の明確な定義もなく障害と認定し、特異性のみを強調しているように思われる。正高教授の結論は一見もっともらしく見えるが、こん なことは『アスペルガー症候群』の患者でなくともすべての人に言えることだ。なぜ、特段『アスペルガー症候群』に限定する必要があるのだろうか。さらに、 コミュニケーションの領域が拡大し、「こころ」が逃げ込む領域が減少していることに対する回答は全く示されていない。『アスペルガー症候群』の「とじこも り」状況から社会のコミュニケーションの場に引きずり出そうというのが彼の観点なのか。むしろ「とじこもって」自由に自分の「こころ」を開放することが可 能な環境を整える方策が必要なのではないのか

「息さわやか外来」再診

18日は「息さわやか外来」の再診の日で、息のガスクロ測定の日だった。待合室で本を読んでいると、医師から名前を呼び出され、小さな部屋に入る。そこで丁寧すぎるくらいの「今日のメニュー」を説明を受け、ガスクロの部屋に通された。ガスクロがどんな形状をしているか興味津々で見ると、思ったよりも随分小さく50cm立法程度の正方形の箱で、数本の管がその箱から伸びており、1本の管には注射器のようなものがつながれている。また、もう一本の管には口にくわえる管が接続されていて、測定する人毎に差し替えるようにできている。

 更に息サンプルを取るための方法の説明を受け、手順どおりに5分間口を閉じて口腔内の息が外に出ないようにした後、静かに口にくわえる管を唇の間に差し込み、管の奥が唾液でぬれないように口腔内で宙に浮かす。すると、医師が「はじめます」といって注射器を引いて息を注射器に吸入し、バルブを切り替え今度は注射器を押し込み注射器の中の息をガスクロに入れて、分析を始めるようだ。
ガスクロの測定結果がでるまで時間があるようで、その間に唾液量の測定をおこなう。自然にして5分間にでる唾液量とパラフィンガムを噛んででる唾液量を調べて、平均的な量と比較するようだ。唾液量が少ないと口腔内の洗浄能力が低下し、雑菌が湧いて口臭の原因になるということで測っていると説明された。でも、口で息をする習慣があると、やはり口腔内が乾燥して雑菌が湧きやすくて同じようなものだと考えられるから、ほんとうはこの測定前に、口で息をするかどうか聞く必要があると思うのだが、それはなかった。
この時点でもガスクロの結果が出ていないようで、次にブレストロンという息の簡易測定器での測定もおこなった。この機器はガスクロが高価なため、より簡便で安く測定することを目的として開発されたようで、揮発性硫黄化合物(VSC)と口臭の強さとの相関を利用してVSCの濃度から口臭レベルを評価するものなんだそうだ。測定結果は1317ppmでレベルはMODERETEで「口臭があります」のランクという結果だった。
更に、2人の医師が私の口腔から出す息と深呼吸したときの肺からの臭いを嗅ぎ、その強度を5ランクで評価をおこなった。
結局、息の測定は3種類の方法を用いているわけだ。なぜ3種類も測定するかといえば、「息がくさい」という主観的な概念をより客観的に把握するため、おそらくこの3種類の方法を比較し指標を明確にする研究目的なのだろう。(研究目的だけでガスクロ測定料金金5000円也は高いのではなかろうか)
ガスクロの結果は硫化水素10.5ng/10ml(認知閾値1.5ng/10ml)、メチルメルカプタン2.37ng/10ml(同0.5ng/10ml)、ジメチスサルファイド0.75ng/10ml(同0.2ng/10ml)となった。硫化水素、メチルメルカプタンは悪臭物質として規制対象になっている都道府県が多い物質で、まさに汚染物質が体内に充満しているということになるのだろうか。
その後、歯科治療にいつも使われる診察用椅子にすわらされ、口を大きく開けて口腔内の検査を受けた。始めに歯周病の検査で、先のとがったカギのようなもので歯茎を押して何mmとかいって一本ずつ測っていた。次に舌を調べて、舌を幾つかに区分して、0~2のレベルで測定していた。何をしているのか聞いたところ、舌苔の厚さをレベル化しているのだそうだ。舌苔は舌の表皮のタンパク質がはがれてそれが舌の絨毯状の突起にくっつき、それに細菌がくっつき繁殖したものだそうで、これも悪臭の原因だそうだ。舌の奥の方がレベル2で舌苔が相当厚くくっ付いているようで、歯ブラシと舌ブラシを売店で買ってくるようにいわれ、買ってくると、舌苔の取り方の実習が始まった。確かにいわれるとおりに舌苔を舌ブラシで十数回こすると薄黄色が白っぽくなり、最後にピンク色に変わって舌の先の色とほぼ同じになった。
舌苔を落として、ブレストロンでの再測定を行うと、425ppmに落ちていた。医師は舌苔を落とした成果だといっているが、前回の診察では歯を磨いた後のブレストロンの結果が442ppmだったから、今回はうがいも、歯磨きもしてこないようにいわれて、そのようにして来ているから、その結果として始めの測定(1317ppm)が高かっただけではないのか。舌苔を落としたというより、舌苔を落としてうがいして口腔内を洗浄したため、歯磨きをして口腔内の洗浄をした前回と同じような数値になったとも考えられるのではと思ったが何もいわずうなずいただけだった。この数値はMILDで「かすかに口臭があります」という結果だそうだ。ガスクロの再測定の結果は硫化水素1.6ng/10ml、メチルメルカプタン0.31ng/10ml、ジメチルサルファイド0.17ng/10mlとなり、始めの測定よりほぼ7~8分の1に減少した。更に、(知っていたが面倒なのでやっていなかった)歯の磨き方を教えてもらい磨いて、再度ブレストロンで測ると、250ppmに減少し、ガスクロは塩化水素1.67ng/10ml、メチルメルカプタン0.317ng/10ml、ジメチルサルファイド0.177ng/10mlとなり、2回目と余り変化がない結果となった。この程度なら普通だそうで、問題ないということだった。結局、舌苔をとるのか効果的という結論だそうだ。

多少疑いながら再診以後は毎朝、舌苔をこそぎ落としている。舌苔を落とすことが口臭をなくすことの必要十分条件とは思はないが、つれあいにいわせれば、口臭がなくなったそうだ。考えてみれば50余年も舌を磨かなかったのだから苔が密集するのも当然といえば当然で、それが原因ならば、「息さわやか外来」が「老人歯科医療」に区分されているのも納得できる。
次回は一ヶ月後で、その間の舌苔との奮闘結果を評価するのだそうだ。

再び、プロ野球新規参入問題

14日にライブドアがプロ野球組織審査小委員会(以下NPB)による新規参入球団に関するヒアリングで、「成人向けサイト」を巡る応酬があった、と朝日新聞のインターネット版で読んだ。子どもたちがライブドアのホームページから違法画像を入手できるとして詰問されたようだが、ライブドアじゃなくてもインターネットに接続できる環境があれば、検索してどこからでも簡単に違法(?)画像や動画を入手できる時代である。それが問題なら、インターネットに接続しなければいいだけだ。そんなこともわからない審査委員が審議しているのだからプロ野球も落ち目なわけだ。また、アダルトゲームソフトの販売にしても、企業が法律を遵守し、営業をしている限りにおいて、NPBなどに不適切な企業などと判断される筋合いではない。不適切なら、法律で裁けばよい。以前に書いたが、NPBが難癖をつけるには、なるだけ新規参入を抑止し、既得権益を維持したいためだけである。こんな審査なんか全く意味がない。

吉本隆明『戦争と平和』を読む

吉本隆明の最新刊『戦争と平和』が図書館で借りることができた。吉本の友人である川端要壽が公演をまとめたもので、最後の1/3は川端の吉本 との付き合 いの中から、「愛と怒りと反逆」の部分を紹介している。このような観点からの吉本の紹介を目にするのは初めてで、興味深く、吉本の「開かれたこころ」の一 部を見たような気にさせる。あとがきも川端が書いていて、「あとがきは吉本が書くべきところですが、彼は大腸癌の手術を受け(退院しておりますが)、まだ 文章を書けるまでは回復していないので、私が代筆のような形になりました。」としている。このあとがきで、吉本が大腸癌で手術を受けたことをはじめて知っ た。
内容は『戦争論(上)(下)』や『超資本主義論』で述べられていることの講演版といったところだ。吉本が出た府立化工(現都立化学工業高等学校)での1995年3月10日の講演で比較的わかりやすくなっている。
「戦争」については、「要するに国と国とが戦いの状態に入って、両方の国の、あるいは複数の国の民衆が兵士となって戦いの先頭に立つ。そしてどちらかが勝 ち、どちらかが負けるというのが、誰でもわかる一般的な考え方」から出発して、この一般的な考え方を「もっととことんまで追い詰めていこうと考えた人た ち」マルクス、レーニンからシモーヌ・ヴェイユまで引用して最後に、「戦争というのは起こりえるんだという考え方、それから戦争というのはやることがあり 得るんだという考え方を取っている限り、いずれにしろ戦争をしたら自分の国は負けると考えようと勝とうと考えようと、それは同じことをやって、どちらかの 民衆がより多く死ぬということを意味するので、ちっとも変わらないじゃないかということが、たぶん戦争ということについてのいちばんどん詰まりの考え方」 としている。では、それ以上の考え方としてヴェイユが追い詰めたことに対し吉本は「精神労働(参謀本部など)と肉体労働(兵士など)の違いがある限り、絶 対に戦争を命令するやつと命を的に戦うやつの区別はなくならないという絶望感を超える方法はあるのか」と自問して、「端的に言えば国家というものをなくし てしまえば国家間戦争というのはなくなってしまいますから、なくしちゃえばいいわけですけれども、ある限りはどうしたらいいのかといえば」、「要するに国 民主権の直接行使(過半数の署名を得て直接の無記名投票をすること)によって政府を代えることができるという条項を獲得することが戦争をなくす唯一の入り 口になるんじゃないか」と考えている。
一方、「平和」について、吉本は「平和については各人の生活状態、心の状態、それからそれを取り巻いてい る社会の状態というものの中に、それぞれ感じている平和というものを護っていく以外、あるいは実現していく以外、平和というものを一般論として定義するこ とは非常に難しいし、極端に悲観的に考えれば、トルストイのように生きている限りはそれはないといふうに考えざるを得ないところまで、平和というものは 個々別々の人々の生の中にしかないということになってしまう。」と考え、こういた「戦争と平和」の考え方の上に立って、現状の分析を行っている。
現在の政府(この講演当時は村山内閣)は自衛隊は合憲だとして、海外は派遣をやている。これは撤回することはできない。憲法九条はもう解釈によれば無効で あると言っていることになる。この状態を超えることのできる手段は「国民主権を直接行使するためにリコール権というものが存在するという条項ができれば」 よいということになる。
この「リコール権」を国際間で考えると、「国家を開いていくこと」で、国内的には「政府は一般大衆の利害を主体に考えな いと、いつでもリコールされる」ということを意味している。「国家が閉じてしまって、国家の自由に軍隊を動かしたりすれば、いつだって平和は脅かされると いうことがあるわけですけれども、国家が開かれているとその開かれたところから一般大衆のリコール権というのが政府に届きますから、それを阻止することが できる。」
しかし、「政治というのは政府が代わればまたちがう政策が出てくるわけですけども、究極的に言いますと、どんなふうな政府がでてきま しても」、「なかなかリコール権というものを獲得することができない。」が「希望に類することがただ一つある」として、、「消費の70~80%が消費につ かわれているという状態」になっているアメリカ、欧州共同体や日本のような先進国では、「消費につわれている部分も、家賃とか光熱費とかいう毎月要るとい う消費と、つかわなければすかわなくてもいいという消費」の部分があって、「皆さんの中で選んで使える消費の部分が所得のうち半分以上を占めている。」 「今月は節約だから旅行に行くのはやめようとか、映画に行くのはやめようとか洋服を買うのをやめようとかいうふうに、自由にやめたりやめなかったりできる 額が半分の半分以上、四分の一から二分の一を占めている。」「皆さんが一斉に一年の半分ないし一年間我慢して選んでつかったり、遊ぶためにつかっているの をやめようじゃないかということをやったら、それで政府は潰れてしまいます。経済的規模が四分の三から二分の一のところにおちてしまいますと、どんな政府 ができても潰れてしまいます。」ですから、「これは潜在的にリコール権を持っていることを意味します。」すなわち、「政治的なリコール権というのは憲法な ら憲法に書き込まなければいけないですけれども、経済的なリコール権ならば、先進国は国民大衆の中にそれはあるんだということを意味しているんです。」
つまり、「平和というものの主導権が潜在的に皆さんの経済生活の中にもうすでに握られているということを意味します。」
「ルワンダへの海外派兵は『よけいなことをするな』といって発砲で戦争をしかけられたら、やっぱり発砲で打ち返す以外ないわけ」だから、「悪いボランティ アなんです」。でも「いいボランティア」もある。例えば阪神大震災時の「救援ボランティアについて動きがよかった。」「非常にそれが目立った。あれはなぜ かといいますと、経済主体が個々の人の中に握られているということが根本的な問題なんです。」「つまり、”これこそが平和”ということが個々人の個々の生 活の中にありながら、しかしもしある急な場面が来た時にどうするんだという場合、それはボランティア活動ができるということの意味だとおもいます。」「つ まり、生活主権がすでにあるために、いいボランティア権というのがすでに大衆の中に入ってきているといえるとおもいます。だから、いいボランティアという のは、いつでも行使できるという状態に皆さんはあるということは、経済統計上、明瞭にみえることであって、それは疑いない。」
「現在の状態、つ まり戦争と平和という問題を解ける最終のところというのは」「少なくともだんだん明瞭になりつつある。」そして、そうなったら、「生活権が同時にボラン ティア権になり、そして経済問題というのは等価交換価値論から一種の贈与価値論といいましょうか、そういうところに移行する」と考えている。

吉本の思考は戦争と平和のとらえかたから始まり、戦争と平和の位相のズレを最終的に主権が政府(国家)から大衆へ移行することで、解消しようとして いる。 すでに実際上経済的な主権は国民大衆に移行しているが、それは認識されておらず、潜在的になっているとしている。これを認識できれば、政府の実質上のリ コール権を大衆が手に入れたことになり、同時に国を開いていくことにもなる。そして、その先に残される問題として国家を開いていった時、先進国は発展途上 国などに、国家として関与していくのではなく、個々人が関与するボランティアという形態の延長上に新たな贈与価値論として再構成されることになると見てい る。いつもながら、すっきりした論理構成である。

 

 

フランス「スカーフ禁止法」と靖国問題

「フランス共和国の国是でもある政教分離の原則に従い、公立校の校内や関連行事で『宗教への帰属をこれ見よがしに示す標章や服装』を禁じる。女性イスラム 教徒のスカーフのほかユダヤ教徒の帽子キッパ、大きな十字架なども対象。法案は上下院とも圧倒的な賛成多数で通り、3月に成立した。」(朝日新聞インター ネット版 8/28記事より)
この法案の施行が新学期9/2かららしい。最も個人主義が徹底しているとされるフランスでなぜ、という気持ちが大 きい。政教分離が国是なら、なおさら個人の宗教に立ち入ることはないように思えるが、中世に宗教によってもたらされた数多くの悲劇を有するフランス の自己防御本能ともいえるものかもしれない。国家を開いていく実験過程にあるフランスにおいても、過去の負の遺産から逃れ切れていないレベルにあること に落胆するばかりである。
~首相の靖国神社を参拝に対する「個人としてですか、総理としてですか」という質問や「総理大臣~として参拝した」な どと応えるレベルよりはましかもしれないが、それほど変わらないという感じもする。日本における現段階で靖国神社の参拝は、本質的には「個人の信仰の自由 にしたがって参拝した。」という好みの問題でしかないが、中国や韓国の反発は、それぞれの国のレベルがいまだ、「個人の自由」を認めない段階にしか至って いないことを露呈しているにすぎない。ただ、~首相が「総理大臣~」という応え方をする背景には、日本という国家を開いていくという観点は皆無で、閉ざし て強力な国家を作るという観点が感じ取られる。これに中国や韓国が敏感に反応しているとは言えそうだ。
靖国問題はどちらも同じレベルの応酬に終始している。