「お金」の本質と資本主義のマジック

アベノマジックを考える前に、基礎的な概念を学び直そうと思った。Nから問われた日銀の政策と三菱UFJ銀行の仮想通貨導入問題は結局「お金」の話で、「お金」とは何かを押さえてからアベノマジックを考えることにした。「お金」の本質についてはやはりマルクスの『資本論』が群を抜いていると思われる。『資本論』は大学の時から2度読んで途中で挫折したが、今回は「お金」を中心に3度目の挑戦となる。

『資本論』は「社会的な富はすべて商品として現れている。」として、この富の構成要素から分析が始まっている。そして「商品は、まず第一に何らかの有償性、つまり使用価値をもつものである。その使用価値は商品の持つ性質によって規定される。」としている。「商品の持つ性質」とは化学的組成や形状さらにその商品をつくる労働の違いによるものである。商品は単なる使用価値だけでなく、「もう一つ使用価値を素材的な担い手とする交換価値をもつという側面」をもっている。そして、交換価値は量的な関係として現れる。物々交換で考えると、この量的な関係は交換比率として現れる。この交換比率は需要と供給の関係で現象として多少の変動はあっても、ある程度の水準にある。マルクスは「20エレの亜麻布は1着の上着に値する」を例として交換における価値を考察している。(エレとは、布地などの寸法を測るための単位。亜麻布とはリンネルとも呼ばれ、亜麻の繊維を原料とした織物の総称。プロイセンでは約67センチ、バイエルンでは約83センチ)

20エレの亜麻布=1着の上着

この式は価値方程式と呼ばれ、左辺(価値を表現するもの)は相対的価値形態、右辺(価値表現の材料)は等価形態とマルクスは呼んだ。今、使用価値から見た場合、亜麻布と上着は違うものだから等号で結びつけることができない。とすれば、等しいのは交換価値ということになる。違うものが同じであるということは、具象(使用価値)的なものを捨象(抽象)していって、はじめて等しくなる概念が生まれる。だから、交換価値とは使用価値からの「抽象」を意味する。この「抽象」はいずれ貨幣へと進化する。貨幣が生まれると交換は貨幣を介した交換へと変化していった。

20エレの亜麻布=10ポンド=1着の上着=10ポンド=小麦0.5クォータ
W(もの)-G(お金)-W’(もの)ーG-W”

しかし、当初貨幣は「抽象」によって種々の「もの」と交換は可能だが、単なる物々交換の代用物でしかなかった。しかし、貨幣の流通が増加し、資本主義になると、それまでの使用価値の交換を主体とする取引に加え、交換価値そのものを取引する形態が生じた。

G(お金)-W(もの)-G'(お金)

商品取引を貨幣から始めると10ポンド(G)が最終的に10ポンド(G’)と交換しても意味がない。10ポンドが20ポンドになる、といったように貨幣が増加しないと交換は意味をもたない。これが資本主義のマジックといわれるものだ。なぜ10ポンドが20ポンドになるのか。マルクスは次のように分析する。Gすなわち資本は商品(W)を造るために、資財・機材・人に分配される。そこで、資本から資源・機材を購入し、人を雇用し賃金を支払う。

お金(G1)-資材(W1)
お金(G2)-機材(W2)
お金(G3)-雇用(W3)
G(=G1+G2+G3)ーW(=W1+W2+W3)

結局、この交換は、等価交換である。そして、この商品を売ると

GーWーG’(=G+α)

資本主義のマジックでαだけ「お金」が増加する。資本主義ではこのシステムが際限なく繰り返される。資材や資源はその使用価値を求めて等価交換したものである。ところで人件費、労働の使用価値とは何だろう。労働の使用価値は同じような仕事を継続的に続けることである。すなわち、労働し、食事し、家に帰ってテレビを見て、風呂に入ってリラックスして睡眠をとり翌日会社に行って再び労働をする。自己再生産する費用が労働の使用価値である。等価交換を基本として考えた場合、αは労働から生じた価値と考える他ない。このαは剰余価値と呼ばれる。現在ではこの考え方は資本主義にとって都合が悪いから、表面上、剰余価値は利潤・配当あるいは地代・利子という形態として、賃金とあわせて「所得」という総称で概念化され本質が隠されることになる。実際には、余剰価値は労働者によって作り出された価値であり、この剰余価値を雇用費用に加えたもの(W3+α)が労働の価値である。そう考えて定式化すると。資本主義のマジックは余剰価値を曖昧にして表面上見えにくくしたマジックだった。

お金(G1)-資材(W1)
お金(G2)-機材(W2)
お金(G3)-雇用(W3
支出:G-W(=W1+W2+W
収入:      W’(=W1+W2+W+α))ーG’(=G+α)

このマジックは、現在ではじゃぶじゃぶな「お金」を使った株や不動産の投機に使われミニ・バブルの様相を呈している。抽象化された「お金」は「お金」を求めて永遠に増え続けようとする。

アベノマジック(1)

友人Nからメールをもらった。日銀の政策と三菱UFJ銀行の仮想通貨導入にかんする問題点と疑問であった。それまでは日銀の金融政策は何をやっても景気に影響を与えることはできないと考えていたため、あまり深く考えていなかった。なぜそう考えていたかというと、多くの人はこれ以上消費を増やさなくても十分生活でき、安定しているからだ。このことをもう少し考えてみる。景気の一つの指標としてGDP(分配面)をみると、GDPの60~70%が消費で大きな位置を占める。だから景気を良くするということは、この消費を増やすような政策が必要になる。ところで、消費は2つからなるといわれる。一つは生活するうえで最低限必要な消費であって、個々人の抑制が困難な消費で基礎的消費とよばれ、もう一つは被服関係や旅行などの趣味・嗜好性が高い消費であって、個々人が少し抑えようとすれば抑えられる消費で選択的消費とよばれるものである。このため、政策はこの選択的消費を増やすようなものでなければ、GDPも景気も上向かない。GDPの分配面をわかりやすくいえば、(消費+貯蓄+税金)となる。一般市民からみると、(所得ー税金)が可処分所得だから、可処分所得のうち、消費を抑えれば、貯蓄が増える。ところで、選択的消費は先進国において消費の40%を超えるものとなっている。このため、金利を下げて、お金をじゃぶじゃぶにしても景気が良くならないのは、少しでも不安があればその選択的消費を抑えて貯蓄に回しても生活には特段問題はないためだ。だから安倍政権が誕生したとき、アベノミクスで金利を低く抑え「お金」を借りやすくし、一方で、物価を上げインフレに誘導し、企業利益や賃金の引き上げによって所得を増やしGDPを増やすといったマジックを行なおうとした政策は、多少所得が増えても物価も上がり、大した変化などないから、選択的消費を増やす行動に移りえない。図―1の消費に占める選択的消費をみると、2011年の震災やオリンピック需要によって、じゃぶじゃぶにした「お金」を復興や施設建設などに使うことができるようになったため、若干景気が上向いたように感じ、2011年~2014年は選択的消費は緩やかに増えたように見える。しかし、2014年以降は消費税増税やアベノマジックの効果で企業が商品価格を上げたため物価が上昇し、これに対応した消費者が選択的消費を抑えたことにより、比較的急に減少に転じている。(最近では、イオンなど大きなスーパーはアベノマジックをイリュージョンだったとして、商品価格を下げる行動に移ってきた。結局デフレ状態は脱却できていない。)

図―1 消費に占める選択的消費比率(赤い線は12カ月移動平均、家計調査より作成)

これをみても、日銀の異次元的金融緩和がほとんど景気(消費)を刺激していないことがわかる。この点では私が思った通りの結果である。
Nにいわれて改めて日銀のアベノマジックへの対応を見ると、非常に恐ろしい状態になっていることがわかった。

今日はアベノマジックに加担して「コレド室町2」で厚岸産のカキフライ定食と生ガキを食べに行って疲れた。次回恐ろしいアベノマジックについて書くつもりだ。

 

 

価値とはなにか

先日大学時代の友人と飲み会を開いた。旧友は気遣いもそれほど必要もなく、思ったことも忌憚なく話せる。そんな中、私が現在興味の持っているのは「脳とこころ」と「価値観」の関係だ、と話したら、Hに「『かわいい姉ちゃんと遊びたい』、と思うのはなぜ」と問われた。この表現には、「めんどくさいことを言っても何の意味もない」、「結局説明なんかできないだろう」という揶揄が含まれている。しかし、この問いに答えれなければ彼の言うとおりだから、少し考えてみた。
「かわいい」には「みにくい」から「きれいだ」までの美の比較と「おさない」から「おとな」までの認知度の比較が混在している。「かわいい」は美としては中間以上で、認知度では中間以下を指している。このように比較する行為は価値観であり、値踏みをしていることになる。この価値は価値論から考えれば「交換価値」に該当し、一般的には「価値」と呼ばれるものに相当する。 また、「姉ちゃんと遊びたい」という言葉の中には「姉ちゃん」に性的な対象として認知してもらい、性的関係に入りたいという生命の根源からの欲求が含まれている。
この欲求は「種の保存の本能」からくるものだ。生命は誕生時に自然と自身を区別する膜をつくり、その中に自然環境のシステムから切り離された独自のシステム(それ自体も自然のシステムだが)をつくりだした。そして、この「種の保存の本能」はもとをただせば、自然環境の激変の中でも、自己のシステムの永続のため、生命を細かく区切り(個体の死)、遺伝子をつうじて、子孫を残したり(個体の継承)、遺伝子を改変して進化(個体の多様化)する方法を選んだ生命の生き残り戦略でもある。
子孫を残す、子供をつくる行為(生命の生き残り戦略)を価値論から考えれば、「使用価値」にあたり、価値の根源を形成している。 そして、この2つの価値、値踏み(「交換価値」)と欲求(「使用価値」)の交点で「かわいい姉ちゃんと遊びたい」という観念が生まれてくる。
人体の構造から考えれば、性的行為を支える性器は消化器官から分離した「内臓系」の臓器で、性的欲求の源である。また、「かわいい」などの眼や耳など感覚器官から入った情報(認知)は神経系を通じて脳で統合化される。この統合するシステムは「体壁系(感覚ー脳)」を構成して認知や判断を司っている。 このように考えると「内臓系」は「使用価値」に対応し、「体壁系」は「交換価値」に対応しており、その交点に我々のすべての価値が存在する。

Nへ~ヘーゲルの「自由」と「承認」

ヨーロッパでは、思想的課題として「自由」が常に大きな位置をしめていた。ルソーやカントは「自由」は元来持っている本質としてとらえ、ヘーゲルは「人間は歴史と無関係に自由な存在ではなく、『時代の精神』が徐々に変化していく歴史の中で次第に自由を知っていく過程」だ、として「自由」の意味を徐々に理解していく存在であると考えた。また、一方で人間は個体としては全くの一人であるが、一人では生存できないことは自明である。この矛盾によって、個体の「自由」を求めながらも少なからず相互に「承認」しながら生きることを強制されてきた。ヘーゲルの『時代精神』は幼年期、少年期、青年期、大人へと至る成長過程で『個体の精神』に反映され、「自由」と「承認」の葛藤の中で(弁証法的に)形を変えながら当時の最も進んだ形態へと進化していくとした。この『時代精神』とはアダムスミスの考え方に代表される考え方で「自分自身の利益を考究していくうちに、 かれは、 自然に、否むしろ必然に、この社会にとってもっとも有利な用途を選考するようになる」という資本主義の基本原理だ。このような『時代精神』をヘーゲルは『個体の精神』に反映させ「個人の内なる個性を発揮して自己表現することで、製品(作品)を現実の世界に生み出す。自分の個性をひたすら表現することが大事だと考えている(「自由」)から表現できたことで、満足できると考えている。しかし、表現されたものは外在するから自身でも客観的に見ざるを得ない。次第に自分の製品を客観的に見ることができるようになり、他者や社会からの批判(「承認」)も加わって、より「ほんもの」の(普遍的な)作品を創ろうと努力するようになる。」と考えた。そして、結局「このような行為や表現は個々人の自由と批評を含んだ社会的行動になっており、自由の欲求と承認の欲求は矛盾せずに結びつく。」と考えることで、最終段階において、「自由」と「承認」の相克は止揚されたことになるとした。

(自注)ヘーゲルの『時代精神』はギリシャ・ローマ時代からはじまり、アジア的段階やアフリカ的段階は未開時代として無視している。このことに対し三木成夫はちょうどヘーゲルのアダムスミスのように、個体の未開時代を脊椎動物の発生と進化そして人類の発達と3歳までの個体の発達を関連付けた。また、吉本隆明もヘーゲルのように個体の未開時代の精神を「アフリカ的段階」と位置づけ、分析した。

トランプの意識的勘違い

トランプは本来は高額所得者保護をねらっている。しかし、外見上はアメリカの雇用を取り戻すことが大統領選挙で自分を支持した白人ブルーカラー層への恩返しをしているようにみえる。そして、不公正貿易の結果、自動車産業などの白人ブルーカラー層の職が奪われ、不満があふれているとみて政策を次々と打ち出し、国内問題を対外政策の問題にすり替えている。今まで米国は資本主義の原理に従って利益を追求しグローバル化を進め、史上最大の利益を上げてきた。その結果、白人ブルーカラーなどの生産業を中心とした国内産業は衰退し、ソフト産業の利益は急成長していった。2015年の「フォーブス」の世界長者番付では1位がマイクロソフトのビル・ゲーツで約9兆円、3位が投資家のウォーレン・バフェットで約8兆円、5位がオラクルのラリー・エリクソンで6兆円など、10位までに5人入っている。この事実を見れば決して不公正貿易が白人ブルーカラーの職を奪っているのではないことは明らかである。企業が利益を追求した結果として職を失ったのであって、資本主義の原理がそうさせたのだ。このグローバル化の流れを止めてしまえば米国の利益は失われ、白人ブルーカラーばかりではなく、ソフトウェア産業のホワイトカラーさえも職を失いかねない。米国の白人ブルーカラー層の救済は対外問題ではなく、国内問題だ。一人で数兆円もの資産を持つものがいるということは明らかに国内の資産(ひいては所得)の分配がうまくいっていないことを示している。ソフトウェア産業が利益を上げているのは数人の優秀な人間の労働の結果ではない。いままで人類の累積された知識(累積された労働)の結果である。数人の優秀な人材の労働が新たな価値を創りだしたことは確かだが、人類が綿々と累積してきた知識から生まれる利益も同時に自分のものとして享受しているのだ。一人の人間の1年間の所得は1億円もあれば使い切れないほどのものである。とすれば、残りの数兆円は累積された労働としてすべての人々に分配されるべきものだ。トランプは国外批判などするよりも国内政策を見直すべきなのだろう。

使用価値とICT技術革新

使用価値は労働によって創りだされるわけだが、ICTの技術革新によって、労働を必要としない環境が整うと、使用価値は機械によって作り出されるのだろうか。そうではない、ICTの技術革新も実は人間の労働の蓄積なのだ。今までの労働価値説は現時点の労働を扱っていたが、ここまで技術が進歩すると、人による労働は減少していく傾向にある。しかし、この技術進歩は導入した会社やICTの技術会社の労働だけによるものなのだろうか。実は、この技術進歩はこれまでに蓄積された労働(経験)に他ならない。この蓄積はその時点で発明あるいは発見した者や会社のものではない。社会全体の労働の蓄積なのだ。この利益は社会全体に還元されなければならない。

ロビンソン・クルーソー

つれあいが退院して3日目。1週間の入院だった。入院中は日常の生活を一人でこなすことになり、結構大変だった。朝起きて朝食を作り後片付けして、掃除機をかけ、洗濯して竿に干し、病院に行き、帰ってきて昼食をとり、・・・といったことを時間配分してこなしていた。退院して少し時間がたって考えてみると、以前読んだ本にマルクスが商品の価値を全く無視したときに何が残るかを考えると、労働だけだ(労働価値説)といったくだりを思い出した。

マルクスは『ロビンソン・クルーソー』になぞらえてわかりやすく説明している。クルーソーは孤島に漂着して生きるために必要な作業、魚をとり、畑を耕し、家を建て・・・を一人でこなさざるをえなかった。このとき、自己の時間を各作業に配分して労働した。この作業は目的(使用価値)は違っていても、労働としては共通していて普遍的なものである。ここに貨幣(交換価値)を必要としない価値の根源的な本質がある。

まさに家庭における家事労働は貨幣を必要とせずに使用価値を創造する。

プロ野球の初ストライキにおもうこと

昨今のTV報道は「初のストライキ」で喧しい。オーナー側の経営危機に対応する合併推進と、選手会側の合併による「リストラ」危機を先 取りし た合併反対の交渉決裂が、先週の土日選手会側の「ストライキ」というかたちで現れた。企業の合併や解散は最終的には経営者の判断である。とくに、「リストラ」はしないと表明している以上、異議があっても、労働者はいかんともしがたい。労働運動は、企業内条件闘争だから、企業の外側の問題には、対応できな い。この意味では、選手会側の「おもいちがい」の「ストライキ」である。一方、企業の外側からこの問題を考えてみると、企業が合併するのも解散するのも自 由とするなら、新規参入も自由と考えるのが普通である。新規参入を組織として阻害することはまさにカルテルで、独禁法の問題なのかもしれない。とくに今回 に関してはライブドアや楽天などの新規参入希望があるにも関わらず、理由をつけて参入を阻んでおり、このことからは、決まったパイをみみっちく仲間内で分 け合っている姿しか見えてこない。今まで、企業利益につながる努力も何もしてこなかったつけで企業合併や解散にいたる責任はオーナー自身が負わなければな らないし、それを選手のリストラとして押し付けることは責任の転嫁である。労働市場が閉鎖的であればあるほど経営責任は重い。この責任から逃れるには、最 低限企業参入を自由にして、労働者の企業選択を自由にするほかにはないであろう。

このように考えると、今回のストライキは労働運動のストライキと考えるよりも、閉鎖性企業集団の内部告発と考えた方がいいのかもしれない。

吉本隆明『戦争と平和』を読む

吉本隆明の最新刊『戦争と平和』が図書館で借りることができた。吉本の友人である川端要壽が公演をまとめたもので、最後の1/3は川端の吉本 との付き合 いの中から、「愛と怒りと反逆」の部分を紹介している。このような観点からの吉本の紹介を目にするのは初めてで、興味深く、吉本の「開かれたこころ」の一 部を見たような気にさせる。あとがきも川端が書いていて、「あとがきは吉本が書くべきところですが、彼は大腸癌の手術を受け(退院しておりますが)、まだ 文章を書けるまでは回復していないので、私が代筆のような形になりました。」としている。このあとがきで、吉本が大腸癌で手術を受けたことをはじめて知っ た。
内容は『戦争論(上)(下)』や『超資本主義論』で述べられていることの講演版といったところだ。吉本が出た府立化工(現都立化学工業高等学校)での1995年3月10日の講演で比較的わかりやすくなっている。
「戦争」については、「要するに国と国とが戦いの状態に入って、両方の国の、あるいは複数の国の民衆が兵士となって戦いの先頭に立つ。そしてどちらかが勝 ち、どちらかが負けるというのが、誰でもわかる一般的な考え方」から出発して、この一般的な考え方を「もっととことんまで追い詰めていこうと考えた人た ち」マルクス、レーニンからシモーヌ・ヴェイユまで引用して最後に、「戦争というのは起こりえるんだという考え方、それから戦争というのはやることがあり 得るんだという考え方を取っている限り、いずれにしろ戦争をしたら自分の国は負けると考えようと勝とうと考えようと、それは同じことをやって、どちらかの 民衆がより多く死ぬということを意味するので、ちっとも変わらないじゃないかということが、たぶん戦争ということについてのいちばんどん詰まりの考え方」 としている。では、それ以上の考え方としてヴェイユが追い詰めたことに対し吉本は「精神労働(参謀本部など)と肉体労働(兵士など)の違いがある限り、絶 対に戦争を命令するやつと命を的に戦うやつの区別はなくならないという絶望感を超える方法はあるのか」と自問して、「端的に言えば国家というものをなくし てしまえば国家間戦争というのはなくなってしまいますから、なくしちゃえばいいわけですけれども、ある限りはどうしたらいいのかといえば」、「要するに国 民主権の直接行使(過半数の署名を得て直接の無記名投票をすること)によって政府を代えることができるという条項を獲得することが戦争をなくす唯一の入り 口になるんじゃないか」と考えている。
一方、「平和」について、吉本は「平和については各人の生活状態、心の状態、それからそれを取り巻いてい る社会の状態というものの中に、それぞれ感じている平和というものを護っていく以外、あるいは実現していく以外、平和というものを一般論として定義するこ とは非常に難しいし、極端に悲観的に考えれば、トルストイのように生きている限りはそれはないといふうに考えざるを得ないところまで、平和というものは 個々別々の人々の生の中にしかないということになってしまう。」と考え、こういた「戦争と平和」の考え方の上に立って、現状の分析を行っている。
現在の政府(この講演当時は村山内閣)は自衛隊は合憲だとして、海外は派遣をやている。これは撤回することはできない。憲法九条はもう解釈によれば無効で あると言っていることになる。この状態を超えることのできる手段は「国民主権を直接行使するためにリコール権というものが存在するという条項ができれば」 よいということになる。
この「リコール権」を国際間で考えると、「国家を開いていくこと」で、国内的には「政府は一般大衆の利害を主体に考えな いと、いつでもリコールされる」ということを意味している。「国家が閉じてしまって、国家の自由に軍隊を動かしたりすれば、いつだって平和は脅かされると いうことがあるわけですけれども、国家が開かれているとその開かれたところから一般大衆のリコール権というのが政府に届きますから、それを阻止することが できる。」
しかし、「政治というのは政府が代わればまたちがう政策が出てくるわけですけども、究極的に言いますと、どんなふうな政府がでてきま しても」、「なかなかリコール権というものを獲得することができない。」が「希望に類することがただ一つある」として、、「消費の70~80%が消費につ かわれているという状態」になっているアメリカ、欧州共同体や日本のような先進国では、「消費につわれている部分も、家賃とか光熱費とかいう毎月要るとい う消費と、つかわなければすかわなくてもいいという消費」の部分があって、「皆さんの中で選んで使える消費の部分が所得のうち半分以上を占めている。」 「今月は節約だから旅行に行くのはやめようとか、映画に行くのはやめようとか洋服を買うのをやめようとかいうふうに、自由にやめたりやめなかったりできる 額が半分の半分以上、四分の一から二分の一を占めている。」「皆さんが一斉に一年の半分ないし一年間我慢して選んでつかったり、遊ぶためにつかっているの をやめようじゃないかということをやったら、それで政府は潰れてしまいます。経済的規模が四分の三から二分の一のところにおちてしまいますと、どんな政府 ができても潰れてしまいます。」ですから、「これは潜在的にリコール権を持っていることを意味します。」すなわち、「政治的なリコール権というのは憲法な ら憲法に書き込まなければいけないですけれども、経済的なリコール権ならば、先進国は国民大衆の中にそれはあるんだということを意味しているんです。」
つまり、「平和というものの主導権が潜在的に皆さんの経済生活の中にもうすでに握られているということを意味します。」
「ルワンダへの海外派兵は『よけいなことをするな』といって発砲で戦争をしかけられたら、やっぱり発砲で打ち返す以外ないわけ」だから、「悪いボランティ アなんです」。でも「いいボランティア」もある。例えば阪神大震災時の「救援ボランティアについて動きがよかった。」「非常にそれが目立った。あれはなぜ かといいますと、経済主体が個々の人の中に握られているということが根本的な問題なんです。」「つまり、”これこそが平和”ということが個々人の個々の生 活の中にありながら、しかしもしある急な場面が来た時にどうするんだという場合、それはボランティア活動ができるということの意味だとおもいます。」「つ まり、生活主権がすでにあるために、いいボランティア権というのがすでに大衆の中に入ってきているといえるとおもいます。だから、いいボランティアという のは、いつでも行使できるという状態に皆さんはあるということは、経済統計上、明瞭にみえることであって、それは疑いない。」
「現在の状態、つ まり戦争と平和という問題を解ける最終のところというのは」「少なくともだんだん明瞭になりつつある。」そして、そうなったら、「生活権が同時にボラン ティア権になり、そして経済問題というのは等価交換価値論から一種の贈与価値論といいましょうか、そういうところに移行する」と考えている。

吉本の思考は戦争と平和のとらえかたから始まり、戦争と平和の位相のズレを最終的に主権が政府(国家)から大衆へ移行することで、解消しようとして いる。 すでに実際上経済的な主権は国民大衆に移行しているが、それは認識されておらず、潜在的になっているとしている。これを認識できれば、政府の実質上のリ コール権を大衆が手に入れたことになり、同時に国を開いていくことにもなる。そして、その先に残される問題として国家を開いていった時、先進国は発展途上 国などに、国家として関与していくのではなく、個々人が関与するボランティアという形態の延長上に新たな贈与価値論として再構成されることになると見てい る。いつもながら、すっきりした論理構成である。