使用価値とICT技術革新

使用価値は労働によって創りだされるわけだが、ICTの技術革新によって、労働を必要としない環境が整うと、使用価値は機械によって作り出されるのだろうか。そうではない、ICTの技術革新も実は人間の労働の蓄積なのだ。今までの労働価値説は現時点の労働を扱っていたが、ここまで技術が進歩すると、人による労働は減少していく傾向にある。しかし、この技術進歩は導入した会社やICTの技術会社の労働だけによるものなのだろうか。実は、この技術進歩はこれまでに蓄積された労働(経験)に他ならない。この蓄積はその時点で発明あるいは発見した者や会社のものではない。社会全体の労働の蓄積なのだ。この利益は社会全体に還元されなければならない。

ロビンソン・クルーソー

つれあいが退院して3日目。1週間の入院だった。入院中は日常の生活を一人でこなすことになり、結構大変だった。朝起きて朝食を作り後片付けして、掃除機をかけ、洗濯して竿に干し、病院に行き、帰ってきて昼食をとり、・・・といったことを時間配分してこなしていた。退院して少し時間がたって考えてみると、以前読んだ本にマルクスが商品の価値を全く無視したときに何が残るかを考えると、労働だけだ(労働価値説)といったくだりを思い出した。

マルクスは『ロビンソン・クルーソー』になぞらえてわかりやすく説明している。クルーソーは孤島に漂着して生きるために必要な作業、魚をとり、畑を耕し、家を建て・・・を一人でこなさざるをえなかった。このとき、自己の時間を各作業に配分して労働した。この作業は目的(使用価値)は違っていても、労働としては共通していて普遍的なものである。ここに貨幣(交換価値)を必要としない価値の根源的な本質がある。

まさに家庭における家事労働は貨幣を必要とせずに使用価値を創造する。

ブログの再開

3年ぶりのブログです。忙しい日々が続いています。年を重ねるごとに体の自由が少しづつ奪われ、同じ程度の忙しさでも、負担が大きくなります。4年ほど前に脊柱管狭窄症で手術した部位に細菌が取り付き、入院せざるをえませんでした。一月半ほどの入院で退院できましたが、細菌が取り付いた椎間板はすっかり破壊され、椎骨がくっつき二つが一つになってしまいました。それがきっかけになった訳ではありませんがブログを書く気にはなかなかなれませんでした。それ以降大学時代の友人とも疎遠になり、自分を解放する場所がなくなると、自然とブログを始めたくなるようです。今後は折に触れ、書き込むことにしたいと思っています。

大阪出張~環境問題とは倫理の問題?

仕事は40人ほどの人たちと議論し、環境にかんする理解を深 めることだ。はじめに6~7人のグループで、関心のある環境問題について話し合ってもらい、その内容を代表者が発表し、全員で討議する方式をとった。議論 していると、代表者の意見の多くは環境問題を解決するには個々人の倫理観の育成が最も重要と考えているようだ。

たとえばゴミ問題では、ゴミの量を減らす、地球温暖化問題では電気や石油ストーブなど燃料や車のガソリン消費を減らす、などの倫理観を学校教育、社会人教育で身につけさせる必要がある、と考えているのだ。

おそらく、ほとんどの人たちに環境問題の解決法を問えば、同じような答えが返ってくるように思う。現在の環境問題は、我々の普通の生活が環境破壊 につながることを報道や教育で知っているからだろう。われわれ自身が環境に「いいこと」をすことがひいては全体の環境問題を改善することにつながると考え ているからだ。そういった意味では教育・広報宣伝の結果としての倫理観の育成や教育はすでに十分行われているといえるだろう。
しかし、ほとんどの人がそのように考えているにも関わらず、ゴミ問題や地球温暖化の問題は、いまだ解決を見ていないし、地球温暖化問題では政府間交渉もままならない状況が続いている。なぜか?

 

わかっているけれども、できないのだ。やろうとする誘因、 きっかけがないのだ。だから、特に制約がなければ普通にゴミを出し、ゴミ問題が大変だと言われれば少しは削減しようと考える。一方、ガソリンや電力の問題 も、特に指示されていなければ、自己の経済的範囲で使用しているが、電力不足 で大変だから「みなさん節電しましょう」といわれれば、その範囲で協力しようとする。これは「生活の倫理」ともいうべき倫理なのだ。

また、もうひとつの倫理もある。それは、個人にぎりぎりの選択が迫られた時、たとえば、召集令状が来て出兵し、死を覚悟の突撃を命じられた時、避 けられない自分の死が「類の生」につながると覚悟して突撃する時の倫理である。これは、おそらく、生命が誕生し、自然界から己を細胞膜で隔離したとき、必然 的に背負ってしまったDNAの記憶で、「生存の倫理」ともいうべき倫理なのかもしれない。

この2つの倫理のうち、「生存の倫理」はだれもが生まれたときからDNAに組み込まれた倫理で変えることのできない絶対的な倫理だが、「生活の倫理」は個々人が経済活動を行っている範囲でもちうる相対的な倫理だ。

おそらく、環境問題では「生存の倫理」の選択を迫る状況にはなかなかなりにくい。自分の行動でゴミを多少多く出たとしても、多少地球温暖化に動い たとしても、類の滅亡にいたる姿は見えてこない。そのため、普通の生活の範囲で環境問題を考えるとき、個々人の判断基準は「生活の倫理」に基づくものにな る。しかし、このばらばらな誘因のない「生活の倫理」に頼っても環境問題の解決に至ることはありえそうもない。

環境問題は、まず、工場な どの事業者がばい煙などを排出し、住民に被害を与える図を原型として考えるとよく見えてくる。なんの規制もなく生産活動を行う自由市場経済の場合、企業は 自己の利益の損益分岐点まで生産を行う。一方、市民は工場のばい煙の影響で肺などを患い病院にかかったとしよう。このとき、病院に係る費用や、これが原因 で休業した場合の費用は、患った市民の自己負担となる。結局、工場稼働による利益の一部は市民の健康を犠牲にして得られているのだ。しかしこの費用は企業 では顧みられることはない。これは経済学的には外部不経済といわれるものだ。市場の外部で発生した費用で「市場の失敗」によってもたらされたものである。 これは倫理の問題ではなく、明らかに経済上の問題だ。

最近の環境問題、ゴミや地球温暖化などの問題では、今までの環境問題と違う側面が出 てきている。排出者の中心は市民自体なのだ。さらに地球環境問題ではもう一つの面が付け加わる。排出による影響が数十年~数百年に至るタイムラグを生じ、 空間的にも地球全域におよび、排出者が直接的に自分の影響として認識するには分かりにくい構造をもつことだ。

一見、排出者が市民自体であ ることから、環境問題の原型が崩れたように見えるし拡張された時空間でわかりにくくなっているが、排出者がいて、その影響をうける者がいる。この両者の間 には、排出者は利益を受け、影響を受ける者は損失を受ける利害関係が発生している。なんら原型と異ならない構造をもっているのだ。

受益者はその影響である損失を支払う経済的責務がある。なぜなら、その影響は元来生産コストのはずだからである。生産コストをただ乗りしてほくそ笑んでいるわけにはいかないのだ。そしてその生産コストは市場を通して、市民である消費者や生産者が負担することになる。

実際にゴミを処理するには相当なコストが支払われている。平成19年度の小金井市の場合総額で30億円弱で一人当たり年間2万5千円程度になるそうだ。こ れは税金から支払われているのだが、税金は給料の天引きであまり意識がない。この金額を「見える化」してゴミの有料化が進めば、ゴミを減らす誘因にもなり 効果的な対策となる。(そのかわり、徴収しているゴミの税金分は徴収をやめる必要がある。)また、地球温暖化を止める必要があるならば、輩出するCO2に コストを支払う構造が必要となる。いわゆる炭素税だ。細かい話は省略するがCO2削減に必要な炭素税は、私の計算やノードハウスの計算では7~25ドル /1tCとなった。ガソリン1Lあたり0.3~1.5円程度の額となる。

以上、環境問題は交換経済の中で生じている限りにおいて倫理の問題ではなく、経済問題である。

最後に端折った感があるが、とりあえずここまで

参考として以下に小金井市のごみ処理経費を掲載する。これは次のURLより転記したものだ。http://gomizero.net/cost.html

小金井市のごみ処理経費

経費内訳 平成17年度 平成18年度 平成19年度
燃やすごみ処理経費 5億197万9千円 4億7380万5千円 9億2537万9千円
燃やすごみ収集運搬費 1億1618万6千円 2億1260万4千円 3億3385万4千円
6億1816万5千円 6億8640万9千円 12億5923万3千円
焼却灰処理費用 3億超? 3億3860万3千円 3億超?
ごみ処理費用総額 19億4648万2千円 21億8777万6千円 28億158万8千円
ごみ処理費用総額/人 1万7千円 1万9千円 2万5千円

大阪出張

出張中に倒れた4月以来の出張だ。ANAで関空につき、乗り換えがやっかいなので、リムジンバスで、第一ホテル(マルビ ル)まで一気に行ってしまう。ちょっとチェックインには早すぎたので、荷物を預け、とりあえず1階のスタバで休憩、「サラダラップ、イングリッシュマフィ ンソーセージ&オムレツ」+スターバックスラテ合わせて1000円弱、結構な値段だ。コーヒーも種類が多く、「こだわり」の現代には適合しているのかもしれないが、私には何が何だか分からない。学生の頃よく喫茶店にいったが、あの頃は単純で、コーヒーというと「あったかいやつ」と「つめたいやつ」ということぐらいしかなかったように思う。まあ、しょうがないか。

時間がまだあるので、梅田の地下街の探索に出かけた。元気な時なら、大阪城や難波などに向かうところだが、歩きすぎると足が重くなるので、翌日の仕事のことも考え、近場で時を過ごすことにした。

第 一ホテル(マルビルというらしい)の地下2階が梅田地下街と接続していて、大阪駅方面の矢印を目当てに進む。阪神梅田駅の入口を左に見ながらさらに進む と、階段があり、上って少し進むともう大阪駅だ。向かって右側の大丸に入り、エスカレータで2階に上り、休憩所を探して回りをみると、宝石売り場の奥の窓 際に四角い大きな腰かけがあり数人が座っている。そこで座って携帯パソコンを出し、光リンクで接続して、今いる場所を確認。近くにヨドバシカメラがあるの で、そこに向かう。駅舎の反対側にあるので、駅舎を越え右に折れて地上に降り、歩道を渡って、ヨドバシカメラに到着。大阪に来てなんでヨドバシカメラなん だ、と思いながら入る。1階は携帯電話とパソコン売り場があり、いろいろ最近の傾向をみてあるく。そそそろ2時になるのでチェックインすることにした。帰 りに地下に入ったら、方向が分からなくなり、あとから考えると御堂筋を南下したようで、筋違いで、迷ってしまった。梅田地下街は迷路のように入り組んでい て、知らない土地の地下には入らないのが良いかもしれない。地上に出て、あたりを見回すと、ちょっと離れた後ろに第一ホテルの丸いビルが少し顔を出してい て、そこを目当てに進んだ。およそ1時間半ほどの時間つぶしだった。

『真実を口にすると世界は凍る』〜法務大臣辞任と国境問題

最近、気になったことが2つほどある。どちらも「真実を口にすると世界は凍る」といった思想家の言葉のとおり、「真実」を口にして首をきられた政 治家や、「真実」を口にすると世界を凍らせてしまうので、「真実」を言えない評論家やコメンテータあるいはニュース解説者と称する者たちのことである。

民主党の法務大臣は、講演会で「法務大臣は、『個別の事案についてはお答えを差し控えます』『法と証拠に基づいて適切にやっております』の2つだ け覚えておけばよい。」というようなことをといって、自民党やその他の野党の「国会軽視だ」という批判や、TVニュースなどの「政治家にあるまじき行い」といった批判の下、結局は管総理に首を切られた。しかし、考えてみれば、今までの自民党の法務大臣などは、何度も国会で彼のような回答をなんども行っていたことからも、自民党が「国会軽視だ」という根拠などどこにもない。ばかな大臣というものは、国会で回答ができるわけもなく、なんとか切り抜ける方策を官僚が考え、これだけ覚えておいてくださいとでもいっていたことを、公にばらしたのだから、自民党などは今までの大臣の権威が大きく損なわれるから問題にしたくなるのも分からなくはない。これこそ、「本当のことを口にして、世界が凍りつき」、首を切られたいい例ともいえる。

また、中国との尖閣列島や韓国との竹島問題、ロシアとの北方領土など国境の問題では、国境の論拠としては、中国や韓国と日本の「日本古来の領土」という考え方と、ロシアの 「現在の支配権の及ぶところが国境」という2つの考え方に集約されそうだ。尖閣列島の問題は、日本も中国、韓国も「日本古来の」「中国古来の」のいう言葉で、自国の領土であると主張している。しかし、「古来」とはいったい何なのだろうか。だれもこの疑問を投げつけていない。それぞれの都合で、ある時代をきりとっ て、この時代から中国のものとか日本のものとかいっているが、もう少しさかのぼれば果たして誰のものなのであろうか。結局、自分の都合に合わせて歴史を切 り取り、「古来」とか「元来」と言っているにすぎない。戦争で決着されることができないとすれば、最終的な決着は限りなく「国境をぼかせる」あるいは「共 有する」ことでしか解決できるわけもなく、そろそろ本当のことを言って、決着の手段を協議始めるほうがいいのではないのか。ところが、すべての報道機関は 「日本古来の領土」として、中国、韓国を侵略者とみなしているし、中国、韓国は「中国(韓国)古来の領土」として、すきあれば、自国の領土として組み入れようとしている。

一 方、ロシアは「現実の政権の及ぶところ」を国境としているため、「古来」「元来」などという言葉は通用しない。過去の歴史を見ていれば、このようなロシア の主張はもっともなことと言わざるを得ない。古来に根拠がないとすれば、国境付近の住民が「我々はXX(日本、ロシアあるいは独立)の方がいい」とでも言 わない限り、現在の権益を維持するほか国境の根拠はないからだ。しかし、このロシアとの国境問題にしても、いずれ自由に行き来して国などを意識することの ない社会に向かって、何をするべきなのかを考える時期なのかもしれない。

TVの解説やコメンテータと称するものたちは、誰もこのことには触れないようとしていない。国家の基本にかかわることは、タブーであり、それゆえ、「本当のことを口にすれば世界が凍る」ことになるからなのだろう。

宮沢湖遠足

飯能から宮沢湖までの遠足は、途中、計画された道筋から加治神社あたりでそれ、山道に入った。山道はよく手入れされた木立が程よい日陰を作り、日射を和らげてくれていた。

私は腰の手術以来、アスファルトの上を2〜3km程度はよく散歩していたが、今回のように山道で、しかも土の上を7〜8kmを歩くことなどなかった。歩 いてみると、比較的歩きやすく、疲れなど感じることはなかった。友人に言わせると私のために楽なコースを考えていた、ということらしい。
30分ほどで宮沢湖に汗だくになって着いた。まだ昼食には早いということになって、湖を一周することになった。湖面にはランダムに船が浮かんで釣りを やっているように見えたが、歩くにつれ方向が変わってよく見ると、釣り船は横一列に等間隔で並んでいて、不思議な気分になった。一列に並んで釣りをするな ら何も宮沢湖でなくても釣り堀で十分なような気がして、宮沢湖の緑に囲まれた風景にそぐわないように思えた。でも、友人の説明で宮沢湖は人工湖だと聞い て、なんとなく納得できた。

「アスペルガー症候群」とはなにか?

ちょっと古いが、4月21日のNHKクローズアップ現代「アスペルガー症候群〜活躍の場を求めて」と4月23日のNHK特報首都圏「”ひとり”が怖い」 は現代若者の精神構造を主題にしたもので、ビデオを見直してみておもしろかった。  最近、新書としては異例のベストセラーを続けている「アスペルガー症候群」、人とのコミュニケーションが苦手とされる発達障害について書かれた本が、サラリーマンたちの注目を集めているそうだ。「自分もそうかもしれない」「KYなどの人が身近にいる」といった観点から読まれているようだ。「アスペルガー 症候群」は「表情」を理解できないなどの脳の機能の一部がうまく働かないことが原因とみられている。職場で対人関係に躓き始めて自分の障害に気付いたとい う人が急増しているという。「私が発言すると相手を怒らせたりする。」「態度がわるいらしいんですよね。自分ではわかんないんですけどね。」こういった一 方で、すぐれた数学的思考力や高い集中力・分析力などを持ち合わせている人も多く、企業ではその能力を発揮してもらうための取り組みが始まっているそう だ。こういった人たちにどう接し、彼らが活躍できる社会をどう作っていくのかを特集したものだ。

「アスペルガー症候群」は知的障害のない自閉症の一つだそうだ。それは先天的に脳の一部が働かないためといわれている。「アスペルガー症候群」の主な特 徴としては、相手の気持ちを推し量れない・会話がうまくできない・極端にこだわりが強い、などの傾向が強いため、他人とのコミュニケーションが難しくな る。「アスペルガー症候群」の人たちは脳の障害によってこうした症状が起きる。「一つのことに集中すると別のことができなくなる。」(電話を聞きながらメ モをとれないなど)なども典型的な症状のようだ。一見して普通の人と区別が出来ないため、親の育て方が悪い、性格の問題だといわれ、障害とは気付かずに長 い間苦しんできた人も多いのだそうだ。最近「アスペルガー症候群」の認識が広がることで、改めて診察を受け障害に気付く人が増えているようだ。
司会者は「人づきあいが苦手な性格とどう違うのか?」と問いかける。正高信男(京都大学霊長類研究所教授)は言葉の意義を字義どおりにだけ受け取る。言葉は使われる場面状況、文脈で意味が変わることが多々あるが、社会的知性に欠けている。皮肉などは全然理解できない人がいる。こだわりが強い、たと えば時間を順守する強い傾向がある。朝は6:00に起き6:10顔を洗う、6:30ご飯を食べる、7:00出勤する。きっちり決めていて1分でもずれると パニックになるといったことがよく見受けられる、と答えた。司会者は、さらに「それでもそのような性格の人はいるのでは?」「障害と障害でないのはどう違う か?」と問いかけると、正高教授は「一つの基準があるわけではなく、この人に障害があるかないかを決めるといったことができない。だれでも多かれ少なかれ 『アスペルガー症候群』の要素を持っている。多面的総合的に判断した時、これらの症候を持っている人は、持っていない人とちょっと違うんじゃないかという 判断が下される。日常生活で人間関係がうまくいかない、上司との間に軋轢がある。ストレスがある。学校で友達が出来ない。だから職場で働くのがいやにな る。といった社会的不適応を起こす、といったことから判断する以外ない。」と答えた。
正高の回答は結局のところ本質的な区別ができないということだ。以前、アスペルガー症候群を扱ったTV放映でレインマンのモデルになった男やヘリコプ ターでパリの上空から見た景色を記憶し、自宅に帰ってから細部まで描く男の実際の姿を見たが、特徴的なのは記憶力がずば抜けてすぐれている点だった。ま た、後天的にもアスペルガーの兆候を示す男もいた。彼は、交通事故で前頭葉の一部を損傷したことで、記憶力が強化されたようだ。このような事実をみると、 明らかに前頭葉は一般の生活をそつなく過ごすために、記憶力を抑制し、統合的な判断ができるように調整しているようにおもわれる。もともとは、誰でもがず ば抜けた記憶力は備わっていて、前頭葉の障害などでなくとも、「こころ」の欲求が強い場合などでは抑制・統合機能が低下して、誰でもアスペルガー的な兆候 を示すのだと考えられそうだ。
また、司会者の「なぜ最近大きく取り上げられるようになったか?」という問いには「現代社会の中で、コミュニケーションの占める比重が飛躍的に大きく なってきたことが原因」と答え、さらに付け加えて、正高教授は、「昭和初年に柳田國男がいっているように、『東日本の山村で働いてる人は単語数10語も口 にしないで生活している』、といっている。一昔前ならコミュニケーションが重要でないといった職種があった。今でもそいった職種を選んで生活する分には社 会不適応にはならない。現在ではそのような職種は片隅に追いやられ、もっぱら他人とのコミュニケーションだけを重視したスタイルになってくる。そうする と、それらが苦手な人はどんどん社会からはじき出される情況になる。」とも言っていた。
これはすぐれた見解のように思われる。一見、現代では自己の「こころ」の表現が自由にできるようになってきたように見えるが、実際には他人の言動を意識 し、自己を抑圧し、コミュニケーションの世界に多くの時間を割くことを要求されるようになってきて、「こころ」が悲鳴をあげ、その逃げ道のひとつとして、 アスペルガー的症状が起こるということなのだろう。
最後に正高教授は「障害というとその負の側面が注目されるが、苦手な部分と表裏一体となって障害を持ったゆえの特異な能力を発揮する。障害の強みに注目 すれば社会の中で十分働ける。周囲が『アスペルガー症候群』にかんして的確な認識を持つことが重要。」と述べ、「『アスペルガー症候群』の人は職場で適当 にということが出来ない。きっちりと、徹底的にというのが原則。やってもらいたいことを明瞭に指示することが大事。社会は異質なものを含んだときに活性化 するし、発展する。『アスペルガー症候群』を排除するのではなく、取り込んでいくことが大事。日本はなにかにつけて横並びの社会、しかし、現在このような 閉塞状況を作り出している。これからは、出る杭は伸ばす、方向性をもつことが大事。」と結論付けた。
『アスペルガー症候群』の明確な定義もなく障害と認定し、特異性のみを強調しているように思われる。正高教授の結論は一見もっともらしく見えるが、こん なことは『アスペルガー症候群』の患者でなくともすべての人に言えることだ。なぜ、特段『アスペルガー症候群』に限定する必要があるのだろうか。さらに、 コミュニケーションの領域が拡大し、「こころ」が逃げ込む領域が減少していることに対する回答は全く示されていない。『アスペルガー症候群』の「とじこも り」状況から社会のコミュニケーションの場に引きずり出そうというのが彼の観点なのか。むしろ「とじこもって」自由に自分の「こころ」を開放することが可 能な環境を整える方策が必要なのではないのか

尼崎脱線事故報道にみるもの

福知山線尼崎の脱線事故はものすごいものであった。同じようなことをくり返すようにみえる日常もくりかえしではないことを証明している。事故 は必然で も、人間個々の生命は生まれるのも死ぬのも偶然でしかないのかもしれない。もしこの生死を必然に置き換えるのなら、宇宙のゆらぎというほかなさそうにもお もえる。
ところで、この事故の報道はここ二、三日の間に新しい局面を迎えている。5/3のインターネット版朝日新聞には、

脱線した快速電車に、JR西日本の運転士2人が客として乗り合わせていたことがわかった。いずれも救助活動に加わらずに出勤し、通常通りに乗務していた。同社は「救助にあたるべきだった」として、処分を含めた対応を検討している。

また、5/5インターネット版朝日新聞には、

JR宝塚線の脱線事故が起きた4月25日、JR西日本天王寺車掌区の区長ら社員43人が、ボウリング大会を催していたことがわかった。同社は記者会見で事実関係を認めたうえで、「中止すべきだった」として区長らの処分を検討している。

というようなことが書かれていた。他の新聞も同じような論調だ。いつもながら、やんなっちゃう情況だ。
相対的でしかない個人の倫理観を普遍的なものとして扱うやりかたには必ずどこかにウソが入っている。新聞記者だって事故の記事をかいたあとに仲間とのみに 行って、ゲラゲラ笑っていることだってあるし、彼女とデートして幸せな気分になることもある。われわれだって、事故のことを悲惨だと話した直後に、冗談を 言ってゲレゲラ笑うことだってある。JR職員だって同じだ。事故の後、会社に行こうが、助けようが他人がとやかく言う問題ではない。まして、ボーリング だって同じで、これを理由に処分なんてふざけた話だ。
確かに、このような事故の報道は「庶民的感情が後押ししている」ためにどこの報道機関でも 論調が同じになるように思えるが、むしろ報道機関が被害者の「持って行き場のない感情」の代弁者を気取り、正義を装っているから、庶民も同情的あるいは反 論できないようにならざるを得ないのではないだろうか。
庶民は半分は被害者やその家族に「かわいそうだ」という同情を持ち、半分は野次馬として の「好奇心」に突き動かされていると考えた方が正しそうだ。庶民のこの2つの情動を報道機関はうまくついているように思われる。被害者へのインタビュー で、加害者としてのJR西日本への怨念を演出し、庶民のなかにある野次馬としての罪の意識に、「お前もJR西日本の倫理観のない加害者と同類か」という踏 み絵を踏ませているから、庶民は罪の意識を感じている分だけ報道機関の「許せない報道」の問いかけにほとんどが後押しするように見えるのではないか。
素直に自分が野次馬でしかないことを認めれば、JR西日本の社員の行動も自分たちとあまりかわらないと認識でき、報道機関のバッシングは正当性を欠いていると判断できるものになるとおもわれる。

現代の「霊験あらたか」とは

今日はいい天気で、遠くまでつれあいと散歩した。御茶ノ水から神保町、九段下を通って飯田橋、神楽坂を登って都営大江戸線で本郷三丁目というコースだ。途中、飯田橋の手前に東京大神宮という神社があって、お参りした。ちょうど結婚式をやっていて、神妙な顔の新郎新婦を薄目でみながらお参りした。この神社は天照大神を祭っていて、「東京のお伊勢さん」と言われているようだ。神社は非常に小さいのだが、木々に囲まれ、ひんやりとして霊験あらたか場所なんだなとおもっていると、どこからかシャー・シャーという音が聞こえる。何かなとおもって、塀のほうに注意を向けると、何のことはない、スプリンクラーで水をまいていて、「霊験」の正体がわかった。現代の「霊験」は近代科学が支えているのかと妙な気分にさせられた。