現代の「霊験あらたか」とは

今日はいい天気で、遠くまでつれあいと散歩した。御茶ノ水から神保町、九段下を通って飯田橋、神楽坂を登って都営大江戸線で本郷三丁目というコースだ。途中、飯田橋の手前に東京大神宮という神社があって、お参りした。ちょうど結婚式をやっていて、神妙な顔の新郎新婦を薄目でみながらお参りした。この神社は天照大神を祭っていて、「東京のお伊勢さん」と言われているようだ。神社は非常に小さいのだが、木々に囲まれ、ひんやりとして霊験あらたか場所なんだなとおもっていると、どこからかシャー・シャーという音が聞こえる。何かなとおもって、塀のほうに注意を向けると、何のことはない、スプリンクラーで水をまいていて、「霊験」の正体がわかった。現代の「霊験」は近代科学が支えているのかと妙な気分にさせられた。

「史上空前の論文捏造」を見る

BS-Hivision の「史上空前の論文捏造」を見た。NHK の村松秀の作品だ。よくできているが、結局、ベル研究所という特殊な知的閉鎖社会で起きた出来事で、若き学者が 「論文捏造」してスター学者となり、将来は物理学を背負っていく存在として嘱望されたが、「捏造」がばれて、果てに破滅(今、中小企業で働いていて破滅と いうにはちょっと違う気がする)していく、という特殊な世界の物語に仕立てている。そして、それを許してしまう原因は、学会のなかの研究者すべてにあり、 「捏造」論文の追試をした研究者はその論文と同じ結果が得られなかったが、共同研究者があまりに著名で、よもや誤りはあるまい、と考え、結果が違ったのは 自分の未熟さのせいだ、と考えたことにある、として、学会などの研究者の権威に弱い体質を暴露しており、痛快ではある。さらに、その責任は、個人は当然と しても、著名な共同研究者も負わなければならないとさりげなくいっている。この最後の原因論や責任論には異存はない。もう少し私なりに読みこなせば、この 作品では2つの側面が見えてくるといっているようにみえる。一つはだます側の心理構造ともう一つはだまされる側の心理構造だ。だます側の心理構造は成果を 期待され、それに答えなければならないという強迫観念に迫られていることだといっており、だまされる側の心理構造は、権威にあこがれているために、逆に権 威を信じ込んでしまう心理構造を無意識のうちにもっていることだといっているように思える。しかし、この2つは根っこは同じで、自己の欲求が強大な権威と いう権力構造のもとで、逆転した構造を持ち、強迫的な「能動性」として表現されれば「捏造」という形態で現われ、無意識な「受動性」として表現されれば 「権威を信じる」という構造をもつと考えればよりスッキリした構造になる。
このような出来事は新聞や世間一般でもでよく出くわす。例えば、新聞 レベルでは、売り上げ至上主義の会社でトップセールスの社員が営業成績を捏造する(私が以前いた会社でもあった)粉飾売り上げ計上やエンロンの不正経理な どもこの部類と考えていいだろう。また、個人レベルでは、親から期待され塾通いの子どもが悪い成績を親に隠し、良い成績だけを見せるのも同じ心理構造だと いえる。結局、似ているような価値観を持ち、似ている環境に置かれれば、ある程度同じようなことが起こると考えた方がいいのかもしれない。高度な学問分野 で起こった出来事だから一見別物のように見えるが、心理構造は一般社会におけるものと全く同じと考えてもよさそうだ。だとすると、この問題は我々の社会の もつ共通の病巣といえそうだ。このTV番組はこの入り口まで来ていたが、残念ながら、社会の病巣に底通する価値観の場面までもっていくことはできなかっ た。それは、この作品を構成した作者が知的できごとと、一般社会的なできごとを無意識のうちに区別する構造をもっており、さらにいえば、知的領域に特別な 価値観(逆向きの価値観かもしれないが)を持っていることの現われのように思える。

 

リスク・コミュニケーション

ほぼ3ヶ月ぶりに書き始める。時として書こうと意図したときもあったが、ポテンシャルが低く、書ける状態ではなかった。

最近、NHKスペシャルやサイエンスゼロなどの製作ディレクターをやってきた人と話をする機会に出会った。この人は「環境ホルモン」という言葉を初めて使った人だそうで、若くてバリバリやっているかんじの人だ。彼は、「リスクコミュニケーション」という言葉を使って、専門バカで表現力の乏しい研究者と無知でバカな大衆の間に入って、利口なTV局スタッフが現在起きている事象(リスク)をわかりやすく伝えることが重要だとしているようだ。(こんなことは直接いっていないが、私流に翻訳するとこうなる。)
ああなるほどなとNHKスペシャルの内容を反芻して、面白さと胡散臭さの両面があることがなんとなくわかったような気がした。
例えば、彼が製作したNHKスペシャルの一部で、「ミッドウェイ島のアホウドリの雛の死骸のお腹のあたりに数個のプラスチックがあって、漂着したごみを食べて死んだ」ということを「雛の死」→「ごみ」→「人間」という連関の中で捉えて、「ごみの海洋投棄をやめよう」と訴えかけているようだ。
これを見れば、「矢が刺さった鴨」や「釣り針の引っかかったタマちゃん」で大騒ぎする心情が一般化している日本や先進国レベルでは「かわいそうだ」ということで、反響は大きそうだが、アジアやアフリカの諸国では、「うまそうなアホウドリが一羽死んだ」とか、「捕まえやすそうな鴨がいるぞ」とか、「アザラシの皮が手に入りそうだ」とかになりそうだ。ということは、「リスクコミュニケーション」は絶対的な価値基準にはならないということで、受け入れられるレベルでしか受け入れられないわけで、結局、バカな大衆のレベルと同じレベルの放送内容ということになるわけだ。
別の観点から考えてみよう。「プラスチックを飲み込んで死んだ」アホウドリと「細菌に感染して死んだ」アホウドリがあったとして、一体何が違うのだろうか。「プラスチックを飲み込んで死んだ」アホウドリはかわいそうだが、「細菌で死んだ」アホウドリは運がわるかったとでもいうのだろうか。人間が自然の一部で、人間は自然を人間化するといっても人間化された自然も所詮自然の一プロセスに過ぎないといえそうで、そうならば、「プラスチック」も「細菌」も同列に考えなくてはならない。そして、アホウドリがかわいそうならどちらにも対策が必要となるだろう。我々は人為的影響にこだわりすぎて自然全体を考えることをつい忘れがちになるが、地球規模の環境問題が取りざたされる中、こういった観点の重要性が増しているように思える。
きれいな映像と、人為的影響としての「プラスチックによる死」の対比が「かわいそうだ」という情感を増幅することまで計算されたこのようなビデオの背後に到達するには、本質的には、画像からの直感によるのではなく、論理的な遡及によってしかたどりつけないものになっている。
そう考えると、直感的な「かわいそうだ」とか「たいへんだ」という感情をTVで感じたときはちょっと眉に唾をつけたほうがいいということなのかもしれない。これが映像のリスク・コミュニケーションのリスクを乗り越える方法とも言える。

朝日新聞「環境税アンケート」

朝日新聞インターネット版(12月1日)によれば、朝日新聞社は「環境税」についての電話世論調査をおこなったようだ。その結果、「地球温暖化を身近に感じる人が8割にのぼり、省エネ生活をしてもよいと思っている人も9割近くいること」、「温暖化対策の一環として検討されている環境税の導入に賛成する人は、4割に満たない」ことがわかったとしている。そして、「新たな種類の税の負担や効果について、不信感を抱いている様子もうかがえる」と判断している。
しかし、これだけ、「地球温暖化」が報道され、今年の(異常の意味がわからないが)異常気象は「地球温暖化」が原因のようなことがいわれる中、「地球温暖化が身近か?」と問われれば、だれでも「Yes」と応えるし、「省エネ生活をしてもよい」と応えるだろう。こんな質問は意味がない。唯一意味のある質問が、「温暖化対策の一環として検討されている環境税の導入に賛成するか?」という質問である。そもそも環境税という税金の性格は、環境に影響を与える経済活動を抑制するために税を課して負担感を増加させ(効用を低下させ)、その結果として、その経済活動を低下させて環境への影響を低減させることが目的である。朝日新聞社の判断である「新たな種類の税の負担や効果について、不信感を抱いている」は負担感が大きければ大きいほど、環境税の効果が上がることを意味しているから、世論は負担を感じるのは当然で、そう思えば思うほど効果が上がることを意味している。
だから、世論の環境税にたいする感覚と、環境税の効果はちょうど裏腹の関係にあり、世論からの延長線上での効果の判定は誤った結論に導く。ただ、世論は経済的負担を受け入れるほど「地球温暖化を身近に感じる」段階にはないということはいえそうで、これが多分、世論の本音というところだろう。
朝日新聞社はもう少し突っ込んだ分析が必要のようだ。

二つの勘違い

サンティアゴとジャカルタで二つの勘違いがあった。一つは小泉純一郎首相と胡錦涛国家主席の間のやりとりで、胡国家主席「現在の中日政治関係で出現している困難は、日本の指導者が靖国神社に参拝していることだ」と述べたことである。もう一つは石原慎太郎都知事と張茅・北京副市長の間のやりとりで、石原都知事が「中国は(地球温暖化防止の)京都議定書に加盟していない」「東京が大気汚染防止に積極的に取り組んだから政府が動いた」 といった発言である。
この二つの発言はちょうど裏返しの構造にあって、同時にこのような発言があったことに興味をもった。
胡錦涛の発言は中国が個人の思想・宗教よりも上位に国家意志がある全体主義の段階であることの証である。以前この「瘋癲老人のつぶやき」にも書いたが、小泉純一郎は「日本は個人の思想・宗教の自由が認められる社会で、私個人の自由意志で靖国神社に参拝している」と国家の段階の違いを明確にいうべきである。
また、石原慎太郎の発言は逆に中国では国家意思に反して地方の意志が表出できる段階に無いことを無視し、あたかも自分が国家意思を形成させたようにいっているが、これは個人の意志が国家の意思に反映させうる段階に至った日本の状況においてのことである。結局この発言は、石原慎太郎が日本にいるからできるということの自覚も無くなされたもので、彼が自己相対化できていないことを示しているにすぎない。このようなご都合主義の人間は、中国にいたなら、中国政府の方針を忠実に守って発言するにきまっており、いかにこの発言が無責任かを示している。

この中国・日本の指導的立場の人間の二つの発言は、双方の国家意思の相違(空間的相違)は歴史的段階の相違(時間的相違)という考え方(歴史認識)の欠如による勘違いといえるだろう。

イラク出兵と香田さんの死

イラクで人質になっていた香田さんは首を切断され、遺体となって発見された。本人の「イラクを見てみたい」という意志は死という結果に終わった。
日本の一若者の意志を実現するには余りにもイラクの現実が重すぎたということなのだろうか。また、この若者を救うことができない日本政府はなんと軽いことか。救うことのできるはずの一国民も救えないで、イラク国民を救うなんてことは到底無理な話だ。もう形だけのイラク復興支援などといって出兵するのはよした方がいい。どうしても出兵が必要なら、油田の利権の確約を米国から取り付け、利権がこれだけ確保できるから出兵する、この出兵によって国内景気がどれだけ上向けることができるとはっきりいえるようにする以外ないだろう。そして、香田さんのように人質になってしまった場合、撤兵すれば利益がこれだけ損失するから、撤兵できない、そのかわり、殺害されたならば、家族に損害補償として、生存時に受け取ると想定される所得の全額を補償する、というくらい言わなければ、出兵と人質見殺しとのバランスがとれないだろう。(2004/11/01)

その後、友人からのメールで、香田さんの遺体搬送費用は遺族が負担するように官房長官が言った、ということを聞いた。出兵が国家利益のためなら、撤兵しないことで殺害された香田さんの遺体運搬費用から彼の損害賠償まで、全て国家が負担するのが論理的帰結といえる。(2004/11/03)

「息さわやか外来」再診

18日は「息さわやか外来」の再診の日で、息のガスクロ測定の日だった。待合室で本を読んでいると、医師から名前を呼び出され、小さな部屋に入る。そこで丁寧すぎるくらいの「今日のメニュー」を説明を受け、ガスクロの部屋に通された。ガスクロがどんな形状をしているか興味津々で見ると、思ったよりも随分小さく50cm立法程度の正方形の箱で、数本の管がその箱から伸びており、1本の管には注射器のようなものがつながれている。また、もう一本の管には口にくわえる管が接続されていて、測定する人毎に差し替えるようにできている。

 更に息サンプルを取るための方法の説明を受け、手順どおりに5分間口を閉じて口腔内の息が外に出ないようにした後、静かに口にくわえる管を唇の間に差し込み、管の奥が唾液でぬれないように口腔内で宙に浮かす。すると、医師が「はじめます」といって注射器を引いて息を注射器に吸入し、バルブを切り替え今度は注射器を押し込み注射器の中の息をガスクロに入れて、分析を始めるようだ。
ガスクロの測定結果がでるまで時間があるようで、その間に唾液量の測定をおこなう。自然にして5分間にでる唾液量とパラフィンガムを噛んででる唾液量を調べて、平均的な量と比較するようだ。唾液量が少ないと口腔内の洗浄能力が低下し、雑菌が湧いて口臭の原因になるということで測っていると説明された。でも、口で息をする習慣があると、やはり口腔内が乾燥して雑菌が湧きやすくて同じようなものだと考えられるから、ほんとうはこの測定前に、口で息をするかどうか聞く必要があると思うのだが、それはなかった。
この時点でもガスクロの結果が出ていないようで、次にブレストロンという息の簡易測定器での測定もおこなった。この機器はガスクロが高価なため、より簡便で安く測定することを目的として開発されたようで、揮発性硫黄化合物(VSC)と口臭の強さとの相関を利用してVSCの濃度から口臭レベルを評価するものなんだそうだ。測定結果は1317ppmでレベルはMODERETEで「口臭があります」のランクという結果だった。
更に、2人の医師が私の口腔から出す息と深呼吸したときの肺からの臭いを嗅ぎ、その強度を5ランクで評価をおこなった。
結局、息の測定は3種類の方法を用いているわけだ。なぜ3種類も測定するかといえば、「息がくさい」という主観的な概念をより客観的に把握するため、おそらくこの3種類の方法を比較し指標を明確にする研究目的なのだろう。(研究目的だけでガスクロ測定料金金5000円也は高いのではなかろうか)
ガスクロの結果は硫化水素10.5ng/10ml(認知閾値1.5ng/10ml)、メチルメルカプタン2.37ng/10ml(同0.5ng/10ml)、ジメチスサルファイド0.75ng/10ml(同0.2ng/10ml)となった。硫化水素、メチルメルカプタンは悪臭物質として規制対象になっている都道府県が多い物質で、まさに汚染物質が体内に充満しているということになるのだろうか。
その後、歯科治療にいつも使われる診察用椅子にすわらされ、口を大きく開けて口腔内の検査を受けた。始めに歯周病の検査で、先のとがったカギのようなもので歯茎を押して何mmとかいって一本ずつ測っていた。次に舌を調べて、舌を幾つかに区分して、0~2のレベルで測定していた。何をしているのか聞いたところ、舌苔の厚さをレベル化しているのだそうだ。舌苔は舌の表皮のタンパク質がはがれてそれが舌の絨毯状の突起にくっつき、それに細菌がくっつき繁殖したものだそうで、これも悪臭の原因だそうだ。舌の奥の方がレベル2で舌苔が相当厚くくっ付いているようで、歯ブラシと舌ブラシを売店で買ってくるようにいわれ、買ってくると、舌苔の取り方の実習が始まった。確かにいわれるとおりに舌苔を舌ブラシで十数回こすると薄黄色が白っぽくなり、最後にピンク色に変わって舌の先の色とほぼ同じになった。
舌苔を落として、ブレストロンでの再測定を行うと、425ppmに落ちていた。医師は舌苔を落とした成果だといっているが、前回の診察では歯を磨いた後のブレストロンの結果が442ppmだったから、今回はうがいも、歯磨きもしてこないようにいわれて、そのようにして来ているから、その結果として始めの測定(1317ppm)が高かっただけではないのか。舌苔を落としたというより、舌苔を落としてうがいして口腔内を洗浄したため、歯磨きをして口腔内の洗浄をした前回と同じような数値になったとも考えられるのではと思ったが何もいわずうなずいただけだった。この数値はMILDで「かすかに口臭があります」という結果だそうだ。ガスクロの再測定の結果は硫化水素1.6ng/10ml、メチルメルカプタン0.31ng/10ml、ジメチルサルファイド0.17ng/10mlとなり、始めの測定よりほぼ7~8分の1に減少した。更に、(知っていたが面倒なのでやっていなかった)歯の磨き方を教えてもらい磨いて、再度ブレストロンで測ると、250ppmに減少し、ガスクロは塩化水素1.67ng/10ml、メチルメルカプタン0.317ng/10ml、ジメチルサルファイド0.177ng/10mlとなり、2回目と余り変化がない結果となった。この程度なら普通だそうで、問題ないということだった。結局、舌苔をとるのか効果的という結論だそうだ。

多少疑いながら再診以後は毎朝、舌苔をこそぎ落としている。舌苔を落とすことが口臭をなくすことの必要十分条件とは思はないが、つれあいにいわせれば、口臭がなくなったそうだ。考えてみれば50余年も舌を磨かなかったのだから苔が密集するのも当然といえば当然で、それが原因ならば、「息さわやか外来」が「老人歯科医療」に区分されているのも納得できる。
次回は一ヶ月後で、その間の舌苔との奮闘結果を評価するのだそうだ。

再び、プロ野球新規参入問題

14日にライブドアがプロ野球組織審査小委員会(以下NPB)による新規参入球団に関するヒアリングで、「成人向けサイト」を巡る応酬があった、と朝日新聞のインターネット版で読んだ。子どもたちがライブドアのホームページから違法画像を入手できるとして詰問されたようだが、ライブドアじゃなくてもインターネットに接続できる環境があれば、検索してどこからでも簡単に違法(?)画像や動画を入手できる時代である。それが問題なら、インターネットに接続しなければいいだけだ。そんなこともわからない審査委員が審議しているのだからプロ野球も落ち目なわけだ。また、アダルトゲームソフトの販売にしても、企業が法律を遵守し、営業をしている限りにおいて、NPBなどに不適切な企業などと判断される筋合いではない。不適切なら、法律で裁けばよい。以前に書いたが、NPBが難癖をつけるには、なるだけ新規参入を抑止し、既得権益を維持したいためだけである。こんな審査なんか全く意味がない。

ある詩人の面影

図書館で「街ぐらし御茶ノ水神田神保町」という本を手にとってみていたら、私が学生時代友人の影響で現代詩を読み出した頃に衝撃を受けた詩 人、田村隆一のことがちょっと記されていた。懐かしくておもって読むと、田村が常宿として利用していた「山の上ホテル」での逸話で、ここでも破天荒な無頼 漢ぶりを遺憾無く発揮していたことがよくわかる。田村隆一の酒好きは有名だが、ホテルの副支配人の談として次のようなことがあったという。

酔っ払った田村が、フロントの中に入り込んで酒を飲み始めたり、ロビーのソファーで「枕を持ってきてここで寝よう」とくだをまくさまを竹若弘眞副支配人は折に触れ思い出す。「本当に面白い人でした」
ある時など、結婚式に出席するために出かけるという田村にワイシャツを貸したこともあった。例によって飲んでいたため、着ていたワイシャツがしわだらけになっていたからだ。ところがクリーニングしたワイシャツを手に部屋で着替えに戻った田村は、いつまでたても出てこない。心配して様子をうかがうと、着替えの途中で倒れ込んで寝ていたという。着替えたワイシャツも当然しわになり、また新しいワイシャツを貸す羽目になったのである。

私が以前読んだ田村の随筆にも、酔っ払ってタクシーに乗り突然藤を見たくなり、「牛島に藤を見にいこう」といったきり寝込んで、牛島までタクシーで行った 話などを覚えている。だが、不思議なことはどこでも、どんなに酔っていても田村は覚えているということだ。言いかえれば、どんなに酔っはらっていても、ど こか覚醒しているということだ。これが詩人の詩人たる由縁かもしれない。

言葉の垂直性にこだわった詩人が亡くなって既に6年(平成10年没)になる。酒が弱かった父より3つばかり若い詩人は、不思議にも父の姿とどこか重なる。

 

 

「息さわやか外来」とは

先日、つれあいに「口臭が強い」といわれ、医科歯科大学の「息さわやか外来」にいった。名前が「さわやか」だが「高齢者歯科外来」と同じ受付窓口になっている。「ああそうか、息がくさいのは高齢者なのか」とへんに納得して受診した。率直にいえば「口臭外来」だが、なんとも「さわやか」なネーミングなのだろうか。次回はガスクロで息の成分を分析して原因をつきとめるらしい。私の体は大気汚染物質の塊のようにもおもえてくる。オオゴトになってきた。