『真実を口にすると世界は凍る』〜法務大臣辞任と国境問題

最近、気になったことが2つほどある。どちらも「真実を口にすると世界は凍る」といった思想家の言葉のとおり、「真実」を口にして首をきられた政 治家や、「真実」を口にすると世界を凍らせてしまうので、「真実」を言えない評論家やコメンテータあるいはニュース解説者と称する者たちのことである。

民主党の法務大臣は、講演会で「法務大臣は、『個別の事案についてはお答えを差し控えます』『法と証拠に基づいて適切にやっております』の2つだ け覚えておけばよい。」というようなことをといって、自民党やその他の野党の「国会軽視だ」という批判や、TVニュースなどの「政治家にあるまじき行い」といった批判の下、結局は管総理に首を切られた。しかし、考えてみれば、今までの自民党の法務大臣などは、何度も国会で彼のような回答をなんども行っていたことからも、自民党が「国会軽視だ」という根拠などどこにもない。ばかな大臣というものは、国会で回答ができるわけもなく、なんとか切り抜ける方策を官僚が考え、これだけ覚えておいてくださいとでもいっていたことを、公にばらしたのだから、自民党などは今までの大臣の権威が大きく損なわれるから問題にしたくなるのも分からなくはない。これこそ、「本当のことを口にして、世界が凍りつき」、首を切られたいい例ともいえる。

また、中国との尖閣列島や韓国との竹島問題、ロシアとの北方領土など国境の問題では、国境の論拠としては、中国や韓国と日本の「日本古来の領土」という考え方と、ロシアの 「現在の支配権の及ぶところが国境」という2つの考え方に集約されそうだ。尖閣列島の問題は、日本も中国、韓国も「日本古来の」「中国古来の」のいう言葉で、自国の領土であると主張している。しかし、「古来」とはいったい何なのだろうか。だれもこの疑問を投げつけていない。それぞれの都合で、ある時代をきりとっ て、この時代から中国のものとか日本のものとかいっているが、もう少しさかのぼれば果たして誰のものなのであろうか。結局、自分の都合に合わせて歴史を切 り取り、「古来」とか「元来」と言っているにすぎない。戦争で決着されることができないとすれば、最終的な決着は限りなく「国境をぼかせる」あるいは「共 有する」ことでしか解決できるわけもなく、そろそろ本当のことを言って、決着の手段を協議始めるほうがいいのではないのか。ところが、すべての報道機関は 「日本古来の領土」として、中国、韓国を侵略者とみなしているし、中国、韓国は「中国(韓国)古来の領土」として、すきあれば、自国の領土として組み入れようとしている。

一 方、ロシアは「現実の政権の及ぶところ」を国境としているため、「古来」「元来」などという言葉は通用しない。過去の歴史を見ていれば、このようなロシア の主張はもっともなことと言わざるを得ない。古来に根拠がないとすれば、国境付近の住民が「我々はXX(日本、ロシアあるいは独立)の方がいい」とでも言 わない限り、現在の権益を維持するほか国境の根拠はないからだ。しかし、このロシアとの国境問題にしても、いずれ自由に行き来して国などを意識することの ない社会に向かって、何をするべきなのかを考える時期なのかもしれない。

TVの解説やコメンテータと称するものたちは、誰もこのことには触れないようとしていない。国家の基本にかかわることは、タブーであり、それゆえ、「本当のことを口にすれば世界が凍る」ことになるからなのだろう。

宮沢湖遠足

飯能から宮沢湖までの遠足は、途中、計画された道筋から加治神社あたりでそれ、山道に入った。山道はよく手入れされた木立が程よい日陰を作り、日射を和らげてくれていた。

私は腰の手術以来、アスファルトの上を2〜3km程度はよく散歩していたが、今回のように山道で、しかも土の上を7〜8kmを歩くことなどなかった。歩 いてみると、比較的歩きやすく、疲れなど感じることはなかった。友人に言わせると私のために楽なコースを考えていた、ということらしい。
30分ほどで宮沢湖に汗だくになって着いた。まだ昼食には早いということになって、湖を一周することになった。湖面にはランダムに船が浮かんで釣りを やっているように見えたが、歩くにつれ方向が変わってよく見ると、釣り船は横一列に等間隔で並んでいて、不思議な気分になった。一列に並んで釣りをするな ら何も宮沢湖でなくても釣り堀で十分なような気がして、宮沢湖の緑に囲まれた風景にそぐわないように思えた。でも、友人の説明で宮沢湖は人工湖だと聞い て、なんとなく納得できた。

「アスペルガー症候群」とはなにか?

ちょっと古いが、4月21日のNHKクローズアップ現代「アスペルガー症候群〜活躍の場を求めて」と4月23日のNHK特報首都圏「”ひとり”が怖い」 は現代若者の精神構造を主題にしたもので、ビデオを見直してみておもしろかった。  最近、新書としては異例のベストセラーを続けている「アスペルガー症候群」、人とのコミュニケーションが苦手とされる発達障害について書かれた本が、サラリーマンたちの注目を集めているそうだ。「自分もそうかもしれない」「KYなどの人が身近にいる」といった観点から読まれているようだ。「アスペルガー 症候群」は「表情」を理解できないなどの脳の機能の一部がうまく働かないことが原因とみられている。職場で対人関係に躓き始めて自分の障害に気付いたとい う人が急増しているという。「私が発言すると相手を怒らせたりする。」「態度がわるいらしいんですよね。自分ではわかんないんですけどね。」こういった一 方で、すぐれた数学的思考力や高い集中力・分析力などを持ち合わせている人も多く、企業ではその能力を発揮してもらうための取り組みが始まっているそう だ。こういった人たちにどう接し、彼らが活躍できる社会をどう作っていくのかを特集したものだ。

「アスペルガー症候群」は知的障害のない自閉症の一つだそうだ。それは先天的に脳の一部が働かないためといわれている。「アスペルガー症候群」の主な特 徴としては、相手の気持ちを推し量れない・会話がうまくできない・極端にこだわりが強い、などの傾向が強いため、他人とのコミュニケーションが難しくな る。「アスペルガー症候群」の人たちは脳の障害によってこうした症状が起きる。「一つのことに集中すると別のことができなくなる。」(電話を聞きながらメ モをとれないなど)なども典型的な症状のようだ。一見して普通の人と区別が出来ないため、親の育て方が悪い、性格の問題だといわれ、障害とは気付かずに長 い間苦しんできた人も多いのだそうだ。最近「アスペルガー症候群」の認識が広がることで、改めて診察を受け障害に気付く人が増えているようだ。
司会者は「人づきあいが苦手な性格とどう違うのか?」と問いかける。正高信男(京都大学霊長類研究所教授)は言葉の意義を字義どおりにだけ受け取る。言葉は使われる場面状況、文脈で意味が変わることが多々あるが、社会的知性に欠けている。皮肉などは全然理解できない人がいる。こだわりが強い、たと えば時間を順守する強い傾向がある。朝は6:00に起き6:10顔を洗う、6:30ご飯を食べる、7:00出勤する。きっちり決めていて1分でもずれると パニックになるといったことがよく見受けられる、と答えた。司会者は、さらに「それでもそのような性格の人はいるのでは?」「障害と障害でないのはどう違う か?」と問いかけると、正高教授は「一つの基準があるわけではなく、この人に障害があるかないかを決めるといったことができない。だれでも多かれ少なかれ 『アスペルガー症候群』の要素を持っている。多面的総合的に判断した時、これらの症候を持っている人は、持っていない人とちょっと違うんじゃないかという 判断が下される。日常生活で人間関係がうまくいかない、上司との間に軋轢がある。ストレスがある。学校で友達が出来ない。だから職場で働くのがいやにな る。といった社会的不適応を起こす、といったことから判断する以外ない。」と答えた。
正高の回答は結局のところ本質的な区別ができないということだ。以前、アスペルガー症候群を扱ったTV放映でレインマンのモデルになった男やヘリコプ ターでパリの上空から見た景色を記憶し、自宅に帰ってから細部まで描く男の実際の姿を見たが、特徴的なのは記憶力がずば抜けてすぐれている点だった。ま た、後天的にもアスペルガーの兆候を示す男もいた。彼は、交通事故で前頭葉の一部を損傷したことで、記憶力が強化されたようだ。このような事実をみると、 明らかに前頭葉は一般の生活をそつなく過ごすために、記憶力を抑制し、統合的な判断ができるように調整しているようにおもわれる。もともとは、誰でもがず ば抜けた記憶力は備わっていて、前頭葉の障害などでなくとも、「こころ」の欲求が強い場合などでは抑制・統合機能が低下して、誰でもアスペルガー的な兆候 を示すのだと考えられそうだ。
また、司会者の「なぜ最近大きく取り上げられるようになったか?」という問いには「現代社会の中で、コミュニケーションの占める比重が飛躍的に大きく なってきたことが原因」と答え、さらに付け加えて、正高教授は、「昭和初年に柳田國男がいっているように、『東日本の山村で働いてる人は単語数10語も口 にしないで生活している』、といっている。一昔前ならコミュニケーションが重要でないといった職種があった。今でもそいった職種を選んで生活する分には社 会不適応にはならない。現在ではそのような職種は片隅に追いやられ、もっぱら他人とのコミュニケーションだけを重視したスタイルになってくる。そうする と、それらが苦手な人はどんどん社会からはじき出される情況になる。」とも言っていた。
これはすぐれた見解のように思われる。一見、現代では自己の「こころ」の表現が自由にできるようになってきたように見えるが、実際には他人の言動を意識 し、自己を抑圧し、コミュニケーションの世界に多くの時間を割くことを要求されるようになってきて、「こころ」が悲鳴をあげ、その逃げ道のひとつとして、 アスペルガー的症状が起こるということなのだろう。
最後に正高教授は「障害というとその負の側面が注目されるが、苦手な部分と表裏一体となって障害を持ったゆえの特異な能力を発揮する。障害の強みに注目 すれば社会の中で十分働ける。周囲が『アスペルガー症候群』にかんして的確な認識を持つことが重要。」と述べ、「『アスペルガー症候群』の人は職場で適当 にということが出来ない。きっちりと、徹底的にというのが原則。やってもらいたいことを明瞭に指示することが大事。社会は異質なものを含んだときに活性化 するし、発展する。『アスペルガー症候群』を排除するのではなく、取り込んでいくことが大事。日本はなにかにつけて横並びの社会、しかし、現在このような 閉塞状況を作り出している。これからは、出る杭は伸ばす、方向性をもつことが大事。」と結論付けた。
『アスペルガー症候群』の明確な定義もなく障害と認定し、特異性のみを強調しているように思われる。正高教授の結論は一見もっともらしく見えるが、こん なことは『アスペルガー症候群』の患者でなくともすべての人に言えることだ。なぜ、特段『アスペルガー症候群』に限定する必要があるのだろうか。さらに、 コミュニケーションの領域が拡大し、「こころ」が逃げ込む領域が減少していることに対する回答は全く示されていない。『アスペルガー症候群』の「とじこも り」状況から社会のコミュニケーションの場に引きずり出そうというのが彼の観点なのか。むしろ「とじこもって」自由に自分の「こころ」を開放することが可 能な環境を整える方策が必要なのではないのか

尼崎脱線事故報道にみるもの

福知山線尼崎の脱線事故はものすごいものであった。同じようなことをくり返すようにみえる日常もくりかえしではないことを証明している。事故 は必然で も、人間個々の生命は生まれるのも死ぬのも偶然でしかないのかもしれない。もしこの生死を必然に置き換えるのなら、宇宙のゆらぎというほかなさそうにもお もえる。
ところで、この事故の報道はここ二、三日の間に新しい局面を迎えている。5/3のインターネット版朝日新聞には、

脱線した快速電車に、JR西日本の運転士2人が客として乗り合わせていたことがわかった。いずれも救助活動に加わらずに出勤し、通常通りに乗務していた。同社は「救助にあたるべきだった」として、処分を含めた対応を検討している。

また、5/5インターネット版朝日新聞には、

JR宝塚線の脱線事故が起きた4月25日、JR西日本天王寺車掌区の区長ら社員43人が、ボウリング大会を催していたことがわかった。同社は記者会見で事実関係を認めたうえで、「中止すべきだった」として区長らの処分を検討している。

というようなことが書かれていた。他の新聞も同じような論調だ。いつもながら、やんなっちゃう情況だ。
相対的でしかない個人の倫理観を普遍的なものとして扱うやりかたには必ずどこかにウソが入っている。新聞記者だって事故の記事をかいたあとに仲間とのみに 行って、ゲラゲラ笑っていることだってあるし、彼女とデートして幸せな気分になることもある。われわれだって、事故のことを悲惨だと話した直後に、冗談を 言ってゲレゲラ笑うことだってある。JR職員だって同じだ。事故の後、会社に行こうが、助けようが他人がとやかく言う問題ではない。まして、ボーリング だって同じで、これを理由に処分なんてふざけた話だ。
確かに、このような事故の報道は「庶民的感情が後押ししている」ためにどこの報道機関でも 論調が同じになるように思えるが、むしろ報道機関が被害者の「持って行き場のない感情」の代弁者を気取り、正義を装っているから、庶民も同情的あるいは反 論できないようにならざるを得ないのではないだろうか。
庶民は半分は被害者やその家族に「かわいそうだ」という同情を持ち、半分は野次馬として の「好奇心」に突き動かされていると考えた方が正しそうだ。庶民のこの2つの情動を報道機関はうまくついているように思われる。被害者へのインタビュー で、加害者としてのJR西日本への怨念を演出し、庶民のなかにある野次馬としての罪の意識に、「お前もJR西日本の倫理観のない加害者と同類か」という踏 み絵を踏ませているから、庶民は罪の意識を感じている分だけ報道機関の「許せない報道」の問いかけにほとんどが後押しするように見えるのではないか。
素直に自分が野次馬でしかないことを認めれば、JR西日本の社員の行動も自分たちとあまりかわらないと認識でき、報道機関のバッシングは正当性を欠いていると判断できるものになるとおもわれる。

現代の「霊験あらたか」とは

今日はいい天気で、遠くまでつれあいと散歩した。御茶ノ水から神保町、九段下を通って飯田橋、神楽坂を登って都営大江戸線で本郷三丁目というコースだ。途中、飯田橋の手前に東京大神宮という神社があって、お参りした。ちょうど結婚式をやっていて、神妙な顔の新郎新婦を薄目でみながらお参りした。この神社は天照大神を祭っていて、「東京のお伊勢さん」と言われているようだ。神社は非常に小さいのだが、木々に囲まれ、ひんやりとして霊験あらたか場所なんだなとおもっていると、どこからかシャー・シャーという音が聞こえる。何かなとおもって、塀のほうに注意を向けると、何のことはない、スプリンクラーで水をまいていて、「霊験」の正体がわかった。現代の「霊験」は近代科学が支えているのかと妙な気分にさせられた。

「史上空前の論文捏造」を見る

BS-Hivision の「史上空前の論文捏造」を見た。NHK の村松秀の作品だ。よくできているが、結局、ベル研究所という特殊な知的閉鎖社会で起きた出来事で、若き学者が 「論文捏造」してスター学者となり、将来は物理学を背負っていく存在として嘱望されたが、「捏造」がばれて、果てに破滅(今、中小企業で働いていて破滅と いうにはちょっと違う気がする)していく、という特殊な世界の物語に仕立てている。そして、それを許してしまう原因は、学会のなかの研究者すべてにあり、 「捏造」論文の追試をした研究者はその論文と同じ結果が得られなかったが、共同研究者があまりに著名で、よもや誤りはあるまい、と考え、結果が違ったのは 自分の未熟さのせいだ、と考えたことにある、として、学会などの研究者の権威に弱い体質を暴露しており、痛快ではある。さらに、その責任は、個人は当然と しても、著名な共同研究者も負わなければならないとさりげなくいっている。この最後の原因論や責任論には異存はない。もう少し私なりに読みこなせば、この 作品では2つの側面が見えてくるといっているようにみえる。一つはだます側の心理構造ともう一つはだまされる側の心理構造だ。だます側の心理構造は成果を 期待され、それに答えなければならないという強迫観念に迫られていることだといっており、だまされる側の心理構造は、権威にあこがれているために、逆に権 威を信じ込んでしまう心理構造を無意識のうちにもっていることだといっているように思える。しかし、この2つは根っこは同じで、自己の欲求が強大な権威と いう権力構造のもとで、逆転した構造を持ち、強迫的な「能動性」として表現されれば「捏造」という形態で現われ、無意識な「受動性」として表現されれば 「権威を信じる」という構造をもつと考えればよりスッキリした構造になる。
このような出来事は新聞や世間一般でもでよく出くわす。例えば、新聞 レベルでは、売り上げ至上主義の会社でトップセールスの社員が営業成績を捏造する(私が以前いた会社でもあった)粉飾売り上げ計上やエンロンの不正経理な どもこの部類と考えていいだろう。また、個人レベルでは、親から期待され塾通いの子どもが悪い成績を親に隠し、良い成績だけを見せるのも同じ心理構造だと いえる。結局、似ているような価値観を持ち、似ている環境に置かれれば、ある程度同じようなことが起こると考えた方がいいのかもしれない。高度な学問分野 で起こった出来事だから一見別物のように見えるが、心理構造は一般社会におけるものと全く同じと考えてもよさそうだ。だとすると、この問題は我々の社会の もつ共通の病巣といえそうだ。このTV番組はこの入り口まで来ていたが、残念ながら、社会の病巣に底通する価値観の場面までもっていくことはできなかっ た。それは、この作品を構成した作者が知的できごとと、一般社会的なできごとを無意識のうちに区別する構造をもっており、さらにいえば、知的領域に特別な 価値観(逆向きの価値観かもしれないが)を持っていることの現われのように思える。

 

リスク・コミュニケーション

ほぼ3ヶ月ぶりに書き始める。時として書こうと意図したときもあったが、ポテンシャルが低く、書ける状態ではなかった。

最近、NHKスペシャルやサイエンスゼロなどの製作ディレクターをやってきた人と話をする機会に出会った。この人は「環境ホルモン」という言葉を初めて使った人だそうで、若くてバリバリやっているかんじの人だ。彼は、「リスクコミュニケーション」という言葉を使って、専門バカで表現力の乏しい研究者と無知でバカな大衆の間に入って、利口なTV局スタッフが現在起きている事象(リスク)をわかりやすく伝えることが重要だとしているようだ。(こんなことは直接いっていないが、私流に翻訳するとこうなる。)
ああなるほどなとNHKスペシャルの内容を反芻して、面白さと胡散臭さの両面があることがなんとなくわかったような気がした。
例えば、彼が製作したNHKスペシャルの一部で、「ミッドウェイ島のアホウドリの雛の死骸のお腹のあたりに数個のプラスチックがあって、漂着したごみを食べて死んだ」ということを「雛の死」→「ごみ」→「人間」という連関の中で捉えて、「ごみの海洋投棄をやめよう」と訴えかけているようだ。
これを見れば、「矢が刺さった鴨」や「釣り針の引っかかったタマちゃん」で大騒ぎする心情が一般化している日本や先進国レベルでは「かわいそうだ」ということで、反響は大きそうだが、アジアやアフリカの諸国では、「うまそうなアホウドリが一羽死んだ」とか、「捕まえやすそうな鴨がいるぞ」とか、「アザラシの皮が手に入りそうだ」とかになりそうだ。ということは、「リスクコミュニケーション」は絶対的な価値基準にはならないということで、受け入れられるレベルでしか受け入れられないわけで、結局、バカな大衆のレベルと同じレベルの放送内容ということになるわけだ。
別の観点から考えてみよう。「プラスチックを飲み込んで死んだ」アホウドリと「細菌に感染して死んだ」アホウドリがあったとして、一体何が違うのだろうか。「プラスチックを飲み込んで死んだ」アホウドリはかわいそうだが、「細菌で死んだ」アホウドリは運がわるかったとでもいうのだろうか。人間が自然の一部で、人間は自然を人間化するといっても人間化された自然も所詮自然の一プロセスに過ぎないといえそうで、そうならば、「プラスチック」も「細菌」も同列に考えなくてはならない。そして、アホウドリがかわいそうならどちらにも対策が必要となるだろう。我々は人為的影響にこだわりすぎて自然全体を考えることをつい忘れがちになるが、地球規模の環境問題が取りざたされる中、こういった観点の重要性が増しているように思える。
きれいな映像と、人為的影響としての「プラスチックによる死」の対比が「かわいそうだ」という情感を増幅することまで計算されたこのようなビデオの背後に到達するには、本質的には、画像からの直感によるのではなく、論理的な遡及によってしかたどりつけないものになっている。
そう考えると、直感的な「かわいそうだ」とか「たいへんだ」という感情をTVで感じたときはちょっと眉に唾をつけたほうがいいということなのかもしれない。これが映像のリスク・コミュニケーションのリスクを乗り越える方法とも言える。

朝日新聞「環境税アンケート」

朝日新聞インターネット版(12月1日)によれば、朝日新聞社は「環境税」についての電話世論調査をおこなったようだ。その結果、「地球温暖化を身近に感じる人が8割にのぼり、省エネ生活をしてもよいと思っている人も9割近くいること」、「温暖化対策の一環として検討されている環境税の導入に賛成する人は、4割に満たない」ことがわかったとしている。そして、「新たな種類の税の負担や効果について、不信感を抱いている様子もうかがえる」と判断している。
しかし、これだけ、「地球温暖化」が報道され、今年の(異常の意味がわからないが)異常気象は「地球温暖化」が原因のようなことがいわれる中、「地球温暖化が身近か?」と問われれば、だれでも「Yes」と応えるし、「省エネ生活をしてもよい」と応えるだろう。こんな質問は意味がない。唯一意味のある質問が、「温暖化対策の一環として検討されている環境税の導入に賛成するか?」という質問である。そもそも環境税という税金の性格は、環境に影響を与える経済活動を抑制するために税を課して負担感を増加させ(効用を低下させ)、その結果として、その経済活動を低下させて環境への影響を低減させることが目的である。朝日新聞社の判断である「新たな種類の税の負担や効果について、不信感を抱いている」は負担感が大きければ大きいほど、環境税の効果が上がることを意味しているから、世論は負担を感じるのは当然で、そう思えば思うほど効果が上がることを意味している。
だから、世論の環境税にたいする感覚と、環境税の効果はちょうど裏腹の関係にあり、世論からの延長線上での効果の判定は誤った結論に導く。ただ、世論は経済的負担を受け入れるほど「地球温暖化を身近に感じる」段階にはないということはいえそうで、これが多分、世論の本音というところだろう。
朝日新聞社はもう少し突っ込んだ分析が必要のようだ。

二つの勘違い

サンティアゴとジャカルタで二つの勘違いがあった。一つは小泉純一郎首相と胡錦涛国家主席の間のやりとりで、胡国家主席「現在の中日政治関係で出現している困難は、日本の指導者が靖国神社に参拝していることだ」と述べたことである。もう一つは石原慎太郎都知事と張茅・北京副市長の間のやりとりで、石原都知事が「中国は(地球温暖化防止の)京都議定書に加盟していない」「東京が大気汚染防止に積極的に取り組んだから政府が動いた」 といった発言である。
この二つの発言はちょうど裏返しの構造にあって、同時にこのような発言があったことに興味をもった。
胡錦涛の発言は中国が個人の思想・宗教よりも上位に国家意志がある全体主義の段階であることの証である。以前この「瘋癲老人のつぶやき」にも書いたが、小泉純一郎は「日本は個人の思想・宗教の自由が認められる社会で、私個人の自由意志で靖国神社に参拝している」と国家の段階の違いを明確にいうべきである。
また、石原慎太郎の発言は逆に中国では国家意思に反して地方の意志が表出できる段階に無いことを無視し、あたかも自分が国家意思を形成させたようにいっているが、これは個人の意志が国家の意思に反映させうる段階に至った日本の状況においてのことである。結局この発言は、石原慎太郎が日本にいるからできるということの自覚も無くなされたもので、彼が自己相対化できていないことを示しているにすぎない。このようなご都合主義の人間は、中国にいたなら、中国政府の方針を忠実に守って発言するにきまっており、いかにこの発言が無責任かを示している。

この中国・日本の指導的立場の人間の二つの発言は、双方の国家意思の相違(空間的相違)は歴史的段階の相違(時間的相違)という考え方(歴史認識)の欠如による勘違いといえるだろう。

イラク出兵と香田さんの死

イラクで人質になっていた香田さんは首を切断され、遺体となって発見された。本人の「イラクを見てみたい」という意志は死という結果に終わった。
日本の一若者の意志を実現するには余りにもイラクの現実が重すぎたということなのだろうか。また、この若者を救うことができない日本政府はなんと軽いことか。救うことのできるはずの一国民も救えないで、イラク国民を救うなんてことは到底無理な話だ。もう形だけのイラク復興支援などといって出兵するのはよした方がいい。どうしても出兵が必要なら、油田の利権の確約を米国から取り付け、利権がこれだけ確保できるから出兵する、この出兵によって国内景気がどれだけ上向けることができるとはっきりいえるようにする以外ないだろう。そして、香田さんのように人質になってしまった場合、撤兵すれば利益がこれだけ損失するから、撤兵できない、そのかわり、殺害されたならば、家族に損害補償として、生存時に受け取ると想定される所得の全額を補償する、というくらい言わなければ、出兵と人質見殺しとのバランスがとれないだろう。(2004/11/01)

その後、友人からのメールで、香田さんの遺体搬送費用は遺族が負担するように官房長官が言った、ということを聞いた。出兵が国家利益のためなら、撤兵しないことで殺害された香田さんの遺体運搬費用から彼の損害賠償まで、全て国家が負担するのが論理的帰結といえる。(2004/11/03)