再び、プロ野球新規参入問題

14日にライブドアがプロ野球組織審査小委員会(以下NPB)による新規参入球団に関するヒアリングで、「成人向けサイト」を巡る応酬があった、と朝日新聞のインターネット版で読んだ。子どもたちがライブドアのホームページから違法画像を入手できるとして詰問されたようだが、ライブドアじゃなくてもインターネットに接続できる環境があれば、検索してどこからでも簡単に違法(?)画像や動画を入手できる時代である。それが問題なら、インターネットに接続しなければいいだけだ。そんなこともわからない審査委員が審議しているのだからプロ野球も落ち目なわけだ。また、アダルトゲームソフトの販売にしても、企業が法律を遵守し、営業をしている限りにおいて、NPBなどに不適切な企業などと判断される筋合いではない。不適切なら、法律で裁けばよい。以前に書いたが、NPBが難癖をつけるには、なるだけ新規参入を抑止し、既得権益を維持したいためだけである。こんな審査なんか全く意味がない。

ある詩人の面影

図書館で「街ぐらし御茶ノ水神田神保町」という本を手にとってみていたら、私が学生時代友人の影響で現代詩を読み出した頃に衝撃を受けた詩 人、田村隆一のことがちょっと記されていた。懐かしくておもって読むと、田村が常宿として利用していた「山の上ホテル」での逸話で、ここでも破天荒な無頼 漢ぶりを遺憾無く発揮していたことがよくわかる。田村隆一の酒好きは有名だが、ホテルの副支配人の談として次のようなことがあったという。

酔っ払った田村が、フロントの中に入り込んで酒を飲み始めたり、ロビーのソファーで「枕を持ってきてここで寝よう」とくだをまくさまを竹若弘眞副支配人は折に触れ思い出す。「本当に面白い人でした」
ある時など、結婚式に出席するために出かけるという田村にワイシャツを貸したこともあった。例によって飲んでいたため、着ていたワイシャツがしわだらけになっていたからだ。ところがクリーニングしたワイシャツを手に部屋で着替えに戻った田村は、いつまでたても出てこない。心配して様子をうかがうと、着替えの途中で倒れ込んで寝ていたという。着替えたワイシャツも当然しわになり、また新しいワイシャツを貸す羽目になったのである。

私が以前読んだ田村の随筆にも、酔っ払ってタクシーに乗り突然藤を見たくなり、「牛島に藤を見にいこう」といったきり寝込んで、牛島までタクシーで行った 話などを覚えている。だが、不思議なことはどこでも、どんなに酔っていても田村は覚えているということだ。言いかえれば、どんなに酔っはらっていても、ど こか覚醒しているということだ。これが詩人の詩人たる由縁かもしれない。

言葉の垂直性にこだわった詩人が亡くなって既に6年(平成10年没)になる。酒が弱かった父より3つばかり若い詩人は、不思議にも父の姿とどこか重なる。

 

 

「息さわやか外来」とは

先日、つれあいに「口臭が強い」といわれ、医科歯科大学の「息さわやか外来」にいった。名前が「さわやか」だが「高齢者歯科外来」と同じ受付窓口になっている。「ああそうか、息がくさいのは高齢者なのか」とへんに納得して受診した。率直にいえば「口臭外来」だが、なんとも「さわやか」なネーミングなのだろうか。次回はガスクロで息の成分を分析して原因をつきとめるらしい。私の体は大気汚染物質の塊のようにもおもえてくる。オオゴトになってきた。

プロ野球の初ストライキにおもうこと

昨今のTV報道は「初のストライキ」で喧しい。オーナー側の経営危機に対応する合併推進と、選手会側の合併による「リストラ」危機を先 取りし た合併反対の交渉決裂が、先週の土日選手会側の「ストライキ」というかたちで現れた。企業の合併や解散は最終的には経営者の判断である。とくに、「リストラ」はしないと表明している以上、異議があっても、労働者はいかんともしがたい。労働運動は、企業内条件闘争だから、企業の外側の問題には、対応できな い。この意味では、選手会側の「おもいちがい」の「ストライキ」である。一方、企業の外側からこの問題を考えてみると、企業が合併するのも解散するのも自 由とするなら、新規参入も自由と考えるのが普通である。新規参入を組織として阻害することはまさにカルテルで、独禁法の問題なのかもしれない。とくに今回 に関してはライブドアや楽天などの新規参入希望があるにも関わらず、理由をつけて参入を阻んでおり、このことからは、決まったパイをみみっちく仲間内で分 け合っている姿しか見えてこない。今まで、企業利益につながる努力も何もしてこなかったつけで企業合併や解散にいたる責任はオーナー自身が負わなければな らないし、それを選手のリストラとして押し付けることは責任の転嫁である。労働市場が閉鎖的であればあるほど経営責任は重い。この責任から逃れるには、最 低限企業参入を自由にして、労働者の企業選択を自由にするほかにはないであろう。

このように考えると、今回のストライキは労働運動のストライキと考えるよりも、閉鎖性企業集団の内部告発と考えた方がいいのかもしれない。

宅間死刑囚処刑の矛盾

宅間死刑囚が処刑された。宅間は捕まったときから判決に至るまでの言動を見る限り、自己否定の極限として小学児童を殺害したようにおもわれる。なぜ自己 否定をあれほど強烈にもちつづけるかはあきらかになっていないが、根源的には「おまえなんか生まれてこなければよかった」という周囲の暗黙の感情が乳児期 から刷り込まれた結果、無意識の中に生じた宅間のせめてもの反撃としての怒りによるもののようにおもえる。もし、宅間死刑囚が「おまえなんか生まれてこな ければよかった。」という抑圧を内向させて素直に受け入れれば、自殺となって現れただろう。しかし、外向して、児童の殺害として現れてしまった。結局、宅 間被告の行為は自殺の裏返しであったと見ることができる。このように考えると宅間の処刑は、単に自殺に手を貸しているだけのこととおもえる。TVなどで は、処刑が当たり前のような言動が飛び交っているが、処刑を認めることは、宅間の自殺を認めることで、ひいてはその裏返しとしての児童殺害を認めることに 他ならない。この矛盾に気づいているヒトは少ない。

吉本隆明『戦争と平和』を読む(2)

前にも書いたが、『戦争と平和』は3部構成で、その第2部は「近代文学の宿命-横光利一について」の1979年全作家全国大会講演内容である。横光利一を2つの観点からとらえている。一つは横光の小説の作法ともう一つは「西欧の文化と明治以降の日本の近代とどこがどういう食いちがいが生まれてきたのかという問題の理解の仕方」ということである。小説の作法にはあまり興味が無いから、「西欧文明と日本の近代」の問題だけをみると、次のようになる。

 文学的長寿の幾つかの処方箋は言うことができます。人間の、自己の内面の無限性というようなものを追求していくことは苦しいですから、特に日本の社会では今も苦しいですから、これを途中で止めて自然とどこかで融和するみたいなところに自分の文学をもっていければ、多分、生き延びられるのではないかとおもいます。特に人間の内面性、個人の内面の無限性を確信するためには、誰もそれを理解する人がいないということと、もし、理解するものを想定するなら唯一の神である、と目に見えない神のようなものである、とそれだけは理解する、それ以外は誰も理解してくれないということを、様々な意味で貫かなければなりませんから、依然として苦しいだろうとおもいます。西欧では当然の伝統だからやっているだけであって、われわれはそうじゃない伝統の中にいるわけですから、貫くのは苦しいわけです。だから、必ず、老大家として生き延びている作家は、自然との融和、あるところでは仲良くするところへ行きます。
ただ、どう考えてもこの処方箋は気にくわないんだと考える限りは、やはり依然として問題を抱え込んで いかなければなりません。横光利一がぶっ倒されて敲きつぶされてしまった問題は大なり小なり、自分の中に抱え込んでいかなければならない。それは日本の近代文学の宿命であり、批評の根本的な課題であるように僕にはおもわれます。
 ヨーロッパの文化が世界普遍性を持つ現在、「内面の無限性」への探求は必然である。しかし、日本文化の中では、この無限性に耐えることが難しく、現在生き残って書き続けている文学界の老大家は、近世までの文化である花鳥風月の自然観の中に逃げ込んでいる。そして、そこから得られる「やすらぎ」のなかで自己保全を謀り、自閉することで、問題の顕在化を裂けようとしている。一方、そこからはみ出さざるをえない者たちは、文学的に自壊していくほか道はないという宿命を背負わされていると理解できる。

吉本隆明『戦争と平和』を読む

吉本隆明の最新刊『戦争と平和』が図書館で借りることができた。吉本の友人である川端要壽が公演をまとめたもので、最後の1/3は川端の吉本 との付き合 いの中から、「愛と怒りと反逆」の部分を紹介している。このような観点からの吉本の紹介を目にするのは初めてで、興味深く、吉本の「開かれたこころ」の一 部を見たような気にさせる。あとがきも川端が書いていて、「あとがきは吉本が書くべきところですが、彼は大腸癌の手術を受け(退院しておりますが)、まだ 文章を書けるまでは回復していないので、私が代筆のような形になりました。」としている。このあとがきで、吉本が大腸癌で手術を受けたことをはじめて知っ た。
内容は『戦争論(上)(下)』や『超資本主義論』で述べられていることの講演版といったところだ。吉本が出た府立化工(現都立化学工業高等学校)での1995年3月10日の講演で比較的わかりやすくなっている。
「戦争」については、「要するに国と国とが戦いの状態に入って、両方の国の、あるいは複数の国の民衆が兵士となって戦いの先頭に立つ。そしてどちらかが勝 ち、どちらかが負けるというのが、誰でもわかる一般的な考え方」から出発して、この一般的な考え方を「もっととことんまで追い詰めていこうと考えた人た ち」マルクス、レーニンからシモーヌ・ヴェイユまで引用して最後に、「戦争というのは起こりえるんだという考え方、それから戦争というのはやることがあり 得るんだという考え方を取っている限り、いずれにしろ戦争をしたら自分の国は負けると考えようと勝とうと考えようと、それは同じことをやって、どちらかの 民衆がより多く死ぬということを意味するので、ちっとも変わらないじゃないかということが、たぶん戦争ということについてのいちばんどん詰まりの考え方」 としている。では、それ以上の考え方としてヴェイユが追い詰めたことに対し吉本は「精神労働(参謀本部など)と肉体労働(兵士など)の違いがある限り、絶 対に戦争を命令するやつと命を的に戦うやつの区別はなくならないという絶望感を超える方法はあるのか」と自問して、「端的に言えば国家というものをなくし てしまえば国家間戦争というのはなくなってしまいますから、なくしちゃえばいいわけですけれども、ある限りはどうしたらいいのかといえば」、「要するに国 民主権の直接行使(過半数の署名を得て直接の無記名投票をすること)によって政府を代えることができるという条項を獲得することが戦争をなくす唯一の入り 口になるんじゃないか」と考えている。
一方、「平和」について、吉本は「平和については各人の生活状態、心の状態、それからそれを取り巻いてい る社会の状態というものの中に、それぞれ感じている平和というものを護っていく以外、あるいは実現していく以外、平和というものを一般論として定義するこ とは非常に難しいし、極端に悲観的に考えれば、トルストイのように生きている限りはそれはないといふうに考えざるを得ないところまで、平和というものは 個々別々の人々の生の中にしかないということになってしまう。」と考え、こういた「戦争と平和」の考え方の上に立って、現状の分析を行っている。
現在の政府(この講演当時は村山内閣)は自衛隊は合憲だとして、海外は派遣をやている。これは撤回することはできない。憲法九条はもう解釈によれば無効で あると言っていることになる。この状態を超えることのできる手段は「国民主権を直接行使するためにリコール権というものが存在するという条項ができれば」 よいということになる。
この「リコール権」を国際間で考えると、「国家を開いていくこと」で、国内的には「政府は一般大衆の利害を主体に考えな いと、いつでもリコールされる」ということを意味している。「国家が閉じてしまって、国家の自由に軍隊を動かしたりすれば、いつだって平和は脅かされると いうことがあるわけですけれども、国家が開かれているとその開かれたところから一般大衆のリコール権というのが政府に届きますから、それを阻止することが できる。」
しかし、「政治というのは政府が代わればまたちがう政策が出てくるわけですけども、究極的に言いますと、どんなふうな政府がでてきま しても」、「なかなかリコール権というものを獲得することができない。」が「希望に類することがただ一つある」として、、「消費の70~80%が消費につ かわれているという状態」になっているアメリカ、欧州共同体や日本のような先進国では、「消費につわれている部分も、家賃とか光熱費とかいう毎月要るとい う消費と、つかわなければすかわなくてもいいという消費」の部分があって、「皆さんの中で選んで使える消費の部分が所得のうち半分以上を占めている。」 「今月は節約だから旅行に行くのはやめようとか、映画に行くのはやめようとか洋服を買うのをやめようとかいうふうに、自由にやめたりやめなかったりできる 額が半分の半分以上、四分の一から二分の一を占めている。」「皆さんが一斉に一年の半分ないし一年間我慢して選んでつかったり、遊ぶためにつかっているの をやめようじゃないかということをやったら、それで政府は潰れてしまいます。経済的規模が四分の三から二分の一のところにおちてしまいますと、どんな政府 ができても潰れてしまいます。」ですから、「これは潜在的にリコール権を持っていることを意味します。」すなわち、「政治的なリコール権というのは憲法な ら憲法に書き込まなければいけないですけれども、経済的なリコール権ならば、先進国は国民大衆の中にそれはあるんだということを意味しているんです。」
つまり、「平和というものの主導権が潜在的に皆さんの経済生活の中にもうすでに握られているということを意味します。」
「ルワンダへの海外派兵は『よけいなことをするな』といって発砲で戦争をしかけられたら、やっぱり発砲で打ち返す以外ないわけ」だから、「悪いボランティ アなんです」。でも「いいボランティア」もある。例えば阪神大震災時の「救援ボランティアについて動きがよかった。」「非常にそれが目立った。あれはなぜ かといいますと、経済主体が個々の人の中に握られているということが根本的な問題なんです。」「つまり、”これこそが平和”ということが個々人の個々の生 活の中にありながら、しかしもしある急な場面が来た時にどうするんだという場合、それはボランティア活動ができるということの意味だとおもいます。」「つ まり、生活主権がすでにあるために、いいボランティア権というのがすでに大衆の中に入ってきているといえるとおもいます。だから、いいボランティアという のは、いつでも行使できるという状態に皆さんはあるということは、経済統計上、明瞭にみえることであって、それは疑いない。」
「現在の状態、つ まり戦争と平和という問題を解ける最終のところというのは」「少なくともだんだん明瞭になりつつある。」そして、そうなったら、「生活権が同時にボラン ティア権になり、そして経済問題というのは等価交換価値論から一種の贈与価値論といいましょうか、そういうところに移行する」と考えている。

吉本の思考は戦争と平和のとらえかたから始まり、戦争と平和の位相のズレを最終的に主権が政府(国家)から大衆へ移行することで、解消しようとして いる。 すでに実際上経済的な主権は国民大衆に移行しているが、それは認識されておらず、潜在的になっているとしている。これを認識できれば、政府の実質上のリ コール権を大衆が手に入れたことになり、同時に国を開いていくことにもなる。そして、その先に残される問題として国家を開いていった時、先進国は発展途上 国などに、国家として関与していくのではなく、個々人が関与するボランティアという形態の延長上に新たな贈与価値論として再構成されることになると見てい る。いつもながら、すっきりした論理構成である。

 

 

フランス「スカーフ禁止法」と靖国問題

「フランス共和国の国是でもある政教分離の原則に従い、公立校の校内や関連行事で『宗教への帰属をこれ見よがしに示す標章や服装』を禁じる。女性イスラム 教徒のスカーフのほかユダヤ教徒の帽子キッパ、大きな十字架なども対象。法案は上下院とも圧倒的な賛成多数で通り、3月に成立した。」(朝日新聞インター ネット版 8/28記事より)
この法案の施行が新学期9/2かららしい。最も個人主義が徹底しているとされるフランスでなぜ、という気持ちが大 きい。政教分離が国是なら、なおさら個人の宗教に立ち入ることはないように思えるが、中世に宗教によってもたらされた数多くの悲劇を有するフランス の自己防御本能ともいえるものかもしれない。国家を開いていく実験過程にあるフランスにおいても、過去の負の遺産から逃れ切れていないレベルにあること に落胆するばかりである。
~首相の靖国神社を参拝に対する「個人としてですか、総理としてですか」という質問や「総理大臣~として参拝した」な どと応えるレベルよりはましかもしれないが、それほど変わらないという感じもする。日本における現段階で靖国神社の参拝は、本質的には「個人の信仰の自由 にしたがって参拝した。」という好みの問題でしかないが、中国や韓国の反発は、それぞれの国のレベルがいまだ、「個人の自由」を認めない段階にしか至って いないことを露呈しているにすぎない。ただ、~首相が「総理大臣~」という応え方をする背景には、日本という国家を開いていくという観点は皆無で、閉ざし て強力な国家を作るという観点が感じ取られる。これに中国や韓国が敏感に反応しているとは言えそうだ。
靖国問題はどちらも同じレベルの応酬に終始している。

小児科学会委員会「脳死臓器提供、12~14歳解禁を提言」とは

小児科学会委員会では、いままで、「死」や「脳死」を認識でき、「臓器提供」を「自己決定」できるのは15歳以上としていたが、14歳未満でも、教育に よっては自己決定できるとして、12~14歳の臓器提供を認める決定をした。どうも、こういった決定が「医者」たちによってなされることに不快を感じる。 自分たちの都合のいいように勝手に決めている感が否めない。
もともと、「死」を経験した人はいないわけで、大人や子どもの区別なく、「死」は観 念の中にしかない。観念は教育や親の考え方の影響を受けやすく、「臓器提供がよいことだ」と刷り込めば、おそらく、小児の「自己決定」を左右することがで きる。現実的に「死」は、病院で主治医が「人工呼吸器をはずせばお亡くなりになります。いかがいたしますか?」と問われ、家族が相談して、「もう十分病気 と戦ったから、はずしてください」といったような形で最終決定されるのが一般的だ。
「死を自己決定できる」として「自己決定年齢の引き下げ」をするくらいなら、「人の死の最終決定は、遺族の判断ででる」し、「臓器移植の決定も遺族が決定できる。」としたほうが、論理的にもすっきりする。もうそろそろ、ご都合主義の「インチキ」は止めたほうがよい。

金原ひとみ『蛇にピアス』を読む

昨年春の芥川賞を受賞した作品。若い女性が2人受賞したことで評判になった。読みたいとはおもっていたが、さすがにこの本を買う気力はなく、図書館で借りられるまで待ていた。昨年は図書館でも予約が殺到し、借りられなかったが、夏休み前、学校の図書館で見つけて、おそまきながら読むことができた。
綿矢りさ『蹴りたい背中』は今年5月頃に同じく図書館で借りられたが、この2作品は現代の若き女性の「こころ」のありかを鮮明に反映しているのかもしれない。
思春期の一時期に、内向化した感受性が両作品共に鮮明に表現されいる。『蹴りたい背中』ではクラスの仲間から疎外されて「余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌」という感性が素直に表現されている。また、『蛇にピアス』では、主人公ルイと恋人アマ、彫師シバの性的な関係のなかで、社会や家族を切り捨てたことによって得られた感受性が自虐的に表現されている。綿矢は、若くして作家としての道を歩み、自分の心情をもう一つの視点で冷静に測る方法を獲得している。金原は、自虐的な自己を無意識的あるいは意識的にに引きずって生きてきたためか、他者との心的関係性に固執しない渇いた視点から作品を描いている。そして、金原は「私はずっと何も持たず何も気にせず何も咎めずに生きてきた。私の未来にも、刺青にも、スプリットタンにも意味がない。」として、自分の作品そのものにも絶望している。しかし、作者の観点とは裏腹にビビッドな生への渇望がスプリットタンのための舌へのピアスや刺青などの自虐的行為の中に感じてしまう。
これらの作品では、個たる人間が疎外されて行き着く先が共同性や家族ではなく、対なる性的関係性に収斂しているように見える。当然といえば当然である。ここに共同性に抑圧され続け、家族には欺かれ続け、疲れ果てた現代の若者の姿がある。
これほど自由な表現のできる現在においても、戦時中に抑圧された体制の中で、社会性を捨てて内向化した作家たちの傾向と同じような傾向が見られる。それだけ心的抑圧が大きくなっている現われでもある。