フランス「スカーフ禁止法」と靖国問題

「フランス共和国の国是でもある政教分離の原則に従い、公立校の校内や関連行事で『宗教への帰属をこれ見よがしに示す標章や服装』を禁じる。女性イスラム 教徒のスカーフのほかユダヤ教徒の帽子キッパ、大きな十字架なども対象。法案は上下院とも圧倒的な賛成多数で通り、3月に成立した。」(朝日新聞インター ネット版 8/28記事より)
この法案の施行が新学期9/2かららしい。最も個人主義が徹底しているとされるフランスでなぜ、という気持ちが大 きい。政教分離が国是なら、なおさら個人の宗教に立ち入ることはないように思えるが、中世に宗教によってもたらされた数多くの悲劇を有するフランス の自己防御本能ともいえるものかもしれない。国家を開いていく実験過程にあるフランスにおいても、過去の負の遺産から逃れ切れていないレベルにあること に落胆するばかりである。
~首相の靖国神社を参拝に対する「個人としてですか、総理としてですか」という質問や「総理大臣~として参拝した」な どと応えるレベルよりはましかもしれないが、それほど変わらないという感じもする。日本における現段階で靖国神社の参拝は、本質的には「個人の信仰の自由 にしたがって参拝した。」という好みの問題でしかないが、中国や韓国の反発は、それぞれの国のレベルがいまだ、「個人の自由」を認めない段階にしか至って いないことを露呈しているにすぎない。ただ、~首相が「総理大臣~」という応え方をする背景には、日本という国家を開いていくという観点は皆無で、閉ざし て強力な国家を作るという観点が感じ取られる。これに中国や韓国が敏感に反応しているとは言えそうだ。
靖国問題はどちらも同じレベルの応酬に終始している。

小児科学会委員会「脳死臓器提供、12~14歳解禁を提言」とは

小児科学会委員会では、いままで、「死」や「脳死」を認識でき、「臓器提供」を「自己決定」できるのは15歳以上としていたが、14歳未満でも、教育に よっては自己決定できるとして、12~14歳の臓器提供を認める決定をした。どうも、こういった決定が「医者」たちによってなされることに不快を感じる。 自分たちの都合のいいように勝手に決めている感が否めない。
もともと、「死」を経験した人はいないわけで、大人や子どもの区別なく、「死」は観 念の中にしかない。観念は教育や親の考え方の影響を受けやすく、「臓器提供がよいことだ」と刷り込めば、おそらく、小児の「自己決定」を左右することがで きる。現実的に「死」は、病院で主治医が「人工呼吸器をはずせばお亡くなりになります。いかがいたしますか?」と問われ、家族が相談して、「もう十分病気 と戦ったから、はずしてください」といったような形で最終決定されるのが一般的だ。
「死を自己決定できる」として「自己決定年齢の引き下げ」をするくらいなら、「人の死の最終決定は、遺族の判断ででる」し、「臓器移植の決定も遺族が決定できる。」としたほうが、論理的にもすっきりする。もうそろそろ、ご都合主義の「インチキ」は止めたほうがよい。

金原ひとみ『蛇にピアス』を読む

昨年春の芥川賞を受賞した作品。若い女性が2人受賞したことで評判になった。読みたいとはおもっていたが、さすがにこの本を買う気力はなく、図書館で借りられるまで待ていた。昨年は図書館でも予約が殺到し、借りられなかったが、夏休み前、学校の図書館で見つけて、おそまきながら読むことができた。
綿矢りさ『蹴りたい背中』は今年5月頃に同じく図書館で借りられたが、この2作品は現代の若き女性の「こころ」のありかを鮮明に反映しているのかもしれない。
思春期の一時期に、内向化した感受性が両作品共に鮮明に表現されいる。『蹴りたい背中』ではクラスの仲間から疎外されて「余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌」という感性が素直に表現されている。また、『蛇にピアス』では、主人公ルイと恋人アマ、彫師シバの性的な関係のなかで、社会や家族を切り捨てたことによって得られた感受性が自虐的に表現されている。綿矢は、若くして作家としての道を歩み、自分の心情をもう一つの視点で冷静に測る方法を獲得している。金原は、自虐的な自己を無意識的あるいは意識的にに引きずって生きてきたためか、他者との心的関係性に固執しない渇いた視点から作品を描いている。そして、金原は「私はずっと何も持たず何も気にせず何も咎めずに生きてきた。私の未来にも、刺青にも、スプリットタンにも意味がない。」として、自分の作品そのものにも絶望している。しかし、作者の観点とは裏腹にビビッドな生への渇望がスプリットタンのための舌へのピアスや刺青などの自虐的行為の中に感じてしまう。
これらの作品では、個たる人間が疎外されて行き着く先が共同性や家族ではなく、対なる性的関係性に収斂しているように見える。当然といえば当然である。ここに共同性に抑圧され続け、家族には欺かれ続け、疲れ果てた現代の若者の姿がある。
これほど自由な表現のできる現在においても、戦時中に抑圧された体制の中で、社会性を捨てて内向化した作家たちの傾向と同じような傾向が見られる。それだけ心的抑圧が大きくなっている現われでもある。

銀行窓口の女性が浴衣姿で応対?

「りそな銀行日暮里・三河島支店(東京都荒川区)では、窓口の女性が浴衣姿で応対」(朝日新聞インターネット版)だそうで、支店長は「浴衣をきっかけに 会話が進み、契約に結びついている」と話しているそうだから、銀行は、貯金や換金、引き出し、借受など金融サービスが目的と思っていたが、こういったサー ビスがエスカレートして、そのうち、水着姿、果てはどうなることやら。金融サービスばかりではなく、他のサービスに拡張していくのだろうか。もう少し企業 目的に合致する想像力を働かせて新たな金融サービスで勝負してほしいところではある。とはいっても、浴衣のおねえさんたちにはエールを。

養老猛司『 バカの壁』を読む

養老猛司の『バカの壁』を学校の図書館で借りることができ、読んだ。彼は、三木成夫の「内臓」を「身体」と意識的に読み替えて使っているように思える。人生訓を中心にしたためか、突込みがたりないのはしょうがないとして、三木成夫からはみ出す議論はほとんどない。たぶん、三木成夫を超えられないと自分で判断しているのではないか。もう少し脳と身体(内臓)の係わり合いを追求すると面白くなりそうな気もする。単に、「身体は脳の入力装置」では、認知論の域をでないものになっている。

亀戸の藤

亀戸天神の藤を見に行く。錦糸町の南口に降りて、先ずは腹ごしらえ。四ツ目通りを直進し、首都高速小松川線の手前の左側に天ぷらの丸中がある。中に 入っ て、天丼(950円)を注文すると間もなく、海老、キス、ナス、ピーマンの天ぷらが上に載ったどんぶりが置かれる。天ぷらは、油がしつこくなく、さっぱり として、なかなかうまい。ただ、タレが少し甘めで残念である。

店を出て、四ツ目通りを錦糸町駅方向に戻る。ガード下を潜ってすぐ錦糸公園である。 公園ではフリーマーケットが開かれていて、大勢の人が集まっている。そこを抜け、元精工舎の工場跡地のビル建築工事現場を左側に見ながら、横十間川に沿っ て北上すると、蔵前橋通りにでる。右折して川をわたると、左側に、葛餅の船橋屋が見えてくる。船橋屋で一服して、葛餅を食べる予定だったが、大勢が並んで いるので、あきらめ、更に進むと亀戸天神の入り口がある。

参道に入ると、両側には水飴、金魚すくい、お面などの屋台が並び、懐かしい風景である。藤を見に行く人、帰る人でごった返している中 を、流れにまかせて進んでいくと、池にかかった太鼓橋があり、そこから、藤棚が一望できる。藤は満開で、1メートルほど垂れ下がった薄紫の花が微風にわず かにゆれ、甘い香りを漂わせている。池には、亀戸のいわれか、中ほどの岩の上で亀の親子が重なって甲羅干しをしている。天神様が祭られている社の前で、5 円のお賽銭をなげ、天神様が抱えきれないほどの願い事をして、横の出口から外に出る。路地をちょっと進むと、蔵前橋通りに戻る。