おっとせい 金子光晴
一.
その息の臭えこと。
口からむんと蒸れる、
そのせなかがぬれて、はか穴のふちのようにぬらぬらしてること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、
おお、憂愁よ。
そのからだの土嚢のやうな
つづぐろいおもさ。かったるさ。
いん気な弾力。
かなしいゴム。
そのこころのおもひあがっていること。
凡庸なこと。
菊面(あばた)。
おほきな陰嚢(ふぐり)。
鼻先があおくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反対の方向をおもってゐた。
やつらがむらがる雲のように横行し
もみあふ街が、おいらには、
ふるぼけた映画(フィルム)で見る
アラスカのやうに淋しかった。
二.
そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを国外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄にたたきこんだのは、
やつらなのだ。
嚔(くさめ)をするやつ。髯のあひだから歯くそをとばすやつ。かみころすあくび、きどっ
た身振り、しきたりをやぶったものには、おそれ、ゆびさし、むほん人だ、狂
人(きちがひ)だとさけんで、がやがやあつまるやつ。そいつら。そいつらは互ひに夫婦(めおと)
だ。権妻(ごんさい)だ。やつらの根性まで相続(うけつ)ぐ悴どもだ。うすぎたねえ血のひきだ。あ
るひは朋党だ。そのまたつながりだ。そして、かぎりもしれぬむすびあひの、
からだとからだの障壁が、海流をせきとめるやうにみえた。
おしながされた海に、霙(みぞれ)のような陽がふり灌(そそ)いだ。
やつらの見上げるそらの無限にそうていつも、金網(かなあみ)があった。
・・・・・・けふはやつらの婚姻の祝ひ。
きのうはやつらの旗日だった。
ひねもす、ぬかるみのなかで、砕冰船(さいひょうせん)が氷をたたくのをきいた。
のべつにおじぎをしたり、ひれとひれとをすりあはせ、どうたいを樽のやうにこ
ろがしたり、そのいやしさ、空虚(むな)しさばっかりで雑鬧(ざったう)しながらやつらは、みる
まに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。
たがひの体温でぬくめあふ、零落のむれをはなれるさむさをいとうて、やつらはい
たはりあふめつきをもとめ、かぼそい声でよびかはした。
三.
おお。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせ
たこの氷塊が、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷(すべ)りはじ
めるのを、すこしも気づかずにゐた。
みだりがはしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは氷上を匍(は)ひまわり、
・・・・・・文学などを語りあった。
うらがなしい暮色よ。
凍傷(しもやけ)にたゞれた落日の掛軸よ!
だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼している奴ら
の群衆のなかで、
侮蔑しきったそぶりで、
たゞひとり、
反対をむいてすましてるやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
たゞ
「むこうむきになってる
おっとせい。」
(詩集『鮫』)