前にも書いたが、『戦争と平和』は3部構成で、その第2部は「近代文学の宿命-横光利一について」の1979年全作家全国大会講演内容である。横光利一を2つの観点からとらえている。一つは横光の小説の作法ともう一つは「西欧の文化と明治以降の日本の近代とどこがどういう食いちがいが生まれてきたのかという問題の理解の仕方」ということである。小説の作法にはあまり興味が無いから、「西欧文明と日本の近代」の問題だけをみると、次のようになる。
文学的長寿の幾つかの処方箋は言うことができます。人間の、自己の内面の無限性というようなものを追求していくことは苦しいですから、特に日本の社会では今も苦しいですから、これを途中で止めて自然とどこかで融和するみたいなところに自分の文学をもっていければ、多分、生き延びられるのではないかとおもいます。特に人間の内面性、個人の内面の無限性を確信するためには、誰もそれを理解する人がいないということと、もし、理解するものを想定するなら唯一の神である、と目に見えない神のようなものである、とそれだけは理解する、それ以外は誰も理解してくれないということを、様々な意味で貫かなければなりませんから、依然として苦しいだろうとおもいます。西欧では当然の伝統だからやっているだけであって、われわれはそうじゃない伝統の中にいるわけですから、貫くのは苦しいわけです。だから、必ず、老大家として生き延びている作家は、自然との融和、あるところでは仲良くするところへ行きます。
吉本隆明『戦争と平和』第2部は「近代文学の宿命-横光利一について」
ただ、どう考えてもこの処方箋は気にくわないんだと考える限りは、やはり依然として問題を抱え込んで いかなければなりません。横光利一がぶっ倒されて敲きつぶされてしまった問題は大なり小なり、自分の中に抱え込んでいかなければならない。それは日本の近代文学の宿命であり、批評の根本的な課題であるように僕にはおもわれます。
ヨーロッパの文化が世界普遍性を持つ現在、「内面の無限性」への探求は必然である。しかし、日本文化の中では、この無限性に耐えることが難しく、現在生き残って書き続けている文学界の老大家は、近世までの文化である花鳥風月の自然観の中に逃げ込んでいる。そして、そこから得られる「やすらぎ」のなかで自己保全を謀り、自閉することで、問題の顕在化を裂けようとしている。一方、そこからはみ出さざるをえない者たちは、文学的に自壊していくほか道はないという宿命を背負わされていると理解できる。