• さようなら! 太陽も海も信ずるに足りない

新型コロナウイルス問題における社会的選択と個人的選択

 今新型コロナウイルスに関して政治的、医学的など各方面から注目を集めている。以前全くの素人であるわたしは生命の進化を調べていた。その中で生命の起源を様々な本から学んだことは、生命とも物質ともつかないRNAが自然界の化学進化で合成され、その後原核細胞に進化し、我々が持つ細胞のような真核細胞に進化した、というようなものであった。このとき生命にならずに残されたRNAなどがウイルスになったと考えていた。ところが朝日新聞のインターネット版の福岡伸一の「ウイルスは撲滅できない」を読んで驚かされた。

 ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。
それゆえにウイルスという存在が進化のプロセスで温存されたのだ。おそらく宿主に全く気づかれることなく、行き来を繰り返し、さまようウイルスは数多く存在していることだろう。

朝日新聞インターネット版
https://digital.asahi.com/articles/ASN433CSLN3VUCVL033.html?pn=4

 気になったのでウイルスの起源を調べてみた。日本獣医学会ホームページの人獣共通感染症連続講座第151回にウイルスの起源に関する仮説が紹介されていた。この仮説ははじめマクファーレン・バーネットが1940年代に提唱したらしい。その後スティーブン・モースがこの仮説に解説を加えたという。それによれば、

第1の仮説
 ウイルスは病気の原因となる大きな微生物(たとえば細菌)が退化して生まれたものというものです。しかし、この微生物の退化説は最近ではほとんど否定的になっています。

第2の仮説
 DNA生物が出現する以前のRNAワールドの時代の面影を残したものという考えです。地球ができたのが46億年前で、一番古いDNA生物が出現したのは38億年前といわれています。それまではRNAの世界と考えられています。現在の生物はすべて遺伝情報としてDNAを持っていますが、ウイルスだけは例外でRNAを遺伝情報としているものが数多くあります。たとえば、エボラウイルス、ニパウイルスなど、エマージングウイルスのほとんどはRNAウイルスです。そこで、これがRNAワールドの遺物ではないかというわけです。

第3の仮説
 細胞の遺伝要素の一部が細胞から飛び出したものという考えです。ウイルスはさまよえる遺伝子というわけです。この説が現在ではもっとも受け入れられています。とくに白血病などの原因となるレトロウイルスにはガン遺伝子があり、これに相当するものが動物の染色体に見つかります。

人獣共通感染症 連続講座 第151回(11/15/2003)日本獣医学会ホームページより
https://www.jsvetsci.jp/veterinary/zoonoses/151.php

 わたしの考え方は第2の仮説に相当する。第3の仮説が福岡の立場だ。福岡の説明はよくわかる。しかし、第1の仮説、第2の仮説も否定しがたい。ずぶの素人が勝手に想像するにはおそらくRNAから生命が誕生し、進化を遂げたが、あらゆる生命の段階で細胞からRNAあるいはDNAが飛び出しウイルスとなってさまよっていると仮定すれば数限りないウイルスの存在も理解できるし、3つの仮説すべてが成立すると考えることができそうに思える。また、人間に感染しやすいウイルスということになればそれはわれわれの細胞に近い高等生物から別れたウイルスのほうがわれわれの細胞にとって受け入れやすく感染しやすいということになるのだろう。そして福岡はウイルスの存在意義を進化との関連で先の引用と重なるが次のような2つの観点からとらえている。

・第一点

 親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。……
 遺伝情報の水平移動は生命系全体の利他的なツールとして、情報の交換と包摂に役立っていった。

朝日新聞インターネット版
https://digital.asahi.com/articles/ASN433CSLN3VUCVL033.html?pn=4

・第二点

 そして個体の死は、その個体が専有していた生態学的な地位、つまりニッチを、新しい生命に手渡すという、生態系全体の動的平衡を促進する行為である。

朝日新聞インターネット版
https://digital.asahi.com/articles/ASN433CSLN3VUCVL033.html?pn=4

 第一点はウイルスによる進化の過程そのものの説明だが、第二点はウイルスによる種の絶滅も生態系全体としてみれば進化、新たな動的平衡に至る重要な過程とらえている。そして最後に結論として次のように述べている。

ウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。

朝日新聞インターネット版
https://digital.asahi.com/articles/ASN433CSLN3VUCVL033.html?pn=4

 確かにそのとおりだが個人的には親鸞がいうように人間には煩悩があるため、たとえ自然の摂理であり受け入れなければならないものであっても納得できないものが残る。例えば「あの世」がどんなに素晴らしくても普通は死にたいとは思わない。われわれ市民は達観して「死」やウイルスを福岡のいうようには受け入れられない。しかし、社会的には「受け入れる」ということがありうる。このとき「受け入れ」には2つの選択肢がある。一つはウイルスなど気にしないで普通に生活し、死ぬ奴は死んで生き残った奴が新しい動的平衡に至るということだ。二つ目は人間自ら強制的にウイルスの侵入を防ぐか新たな動的平衡を作りあげることだ。しかしこの方法でも死ぬ奴は死に生き残る奴は生き残る。簡単に言ってしまえば一つ目は極端には何もしないで集団免疫ができるのを待つことでウイルスを受け入れ、二つ目は医学的にワクチンや薬などを開発し、ウイルスを受け入れる(阻止も含む)ということだ。
 現在各国でとられている戦略は古来取られてき方法の都市封鎖などが中心である。ワクチンや薬のない情況では致し方ないが、この戦略は封鎖された内部において免疫ができるまで集団免疫戦略をとり外部にはウイルスを拡散させないということだ。しかし、今回のウイルスは無症状のままの人が80%(中国のデータ)近くいるという。しかも感染力が非常に強いらしい。だとすると本来的には都市封鎖の意味がない。封鎖したと思ってもどこからか漏れてしまうことはあきらかだ。封鎖することによりほかの都市への感染が若干遅くなるだけのように思われる。ヨーロッパやアメリカを見ると、ほとんど都市封鎖の効果がないように思われる。
 このような情況に対応するには医学やウイルスの学者などの専門家が地域や国家など全体としてどのような対策をとれば最も感染者を減らし、生命を助けられるのかを学者生命をかけて公表することだ。また同じように経済学者は学者生命をかけて、どのような経済政策が現情況に最も最適かを公表することだ。そして政治家は政治生命をかけて政策を打ち出し、なぜその政策を実施しようとしているのかを説明すべきだ。
 そしてわれわれ市民は提供された情報から自己に最もふさわしい選択を自己の責任で選ぶことだ。われわれは煩悩があるゆえに体に悪いといわれてもタバコをやめられないし、酒もやめられない。ウイルスに感染するかもしれなくても街に出て散歩して、友人たちと楽しく話したい。同じことだ。たとえ法令や黙契で禁止されていても自己の判断で自己の責任で行動するほかない。

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