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黒川検事長と「賭け事」の罪と罰

 わたしが麻雀を始めたのは大学時代だ。毎日学校には行っても授業に出席せず友人の下宿に入り浸っていた。そこにはいつも数人集まって麻雀をしていた。ただ皆お金がなかったから「賭ける」ということはしなかった。「賭ける」ということではパチンコも大学時代に十数回やったことがある。ほとんどは負けてしまったが、1~2回だけ小さな箱をいっぱいにして景品交換所でお金に換えたことがある。また父親は競馬が好きで時々大きく負けて母とよく喧嘩をしていたことを想いだす。父の死の直前にもダービーがあり、頼まれて馬券を買いに行った記憶がある。大学の友人も競馬が好きなやつがいて「今回勝ったら牛肉ぶら下げてくる」と話していたが、その日彼はこなかったのでおそらく負けたのだろう。大学を卒業してコンサルタント会社に就職し、なれてきたころ同期の何人かと雀荘にいき「賭け麻雀」をしたものだ。勝つと「ショバ代」を支払う約束があり、勝っても損をすることがあった。懐かしい想い出である。もう何十年も賭け事は「宝くじ」以外やっていない。

 あまり「賭け事」をやらないわたしでも考えると多くやっているのだから、多くの人にとって「賭け事」は日常的に行われているといってよい。うろおぼえだが、法や近代国家の理念を確定したヘーゲルは「一般意思をあつめてきて共通部分を法とする」というようなことを言っていたと思う。さらに「法は厳格かつ公平に守られねばならない」とも言っていたように思う。この法律の理念に照らして考えれば、これほど一般化している「賭け事」を規制する法律は成立するのだろうか疑問が残る。

 黒川検事長の「賭け麻雀」問題でのTV報道は「検事長ともあろうものが法律違反するなんて」「緊急事態宣言時に麻雀やるなんて不謹慎」というものだ。黒川を守ろうとは思わないが、一般にやっている「賭け麻雀」はお目こぼしで、黒川は立件しろというのは法の下の平等に反するようにおもう。

 おそらく「賭け」は個人的嗜好の問題で法規制するには問題がある。なぜ「賭け」に填るのかは本質的な問題だが、その心理面をとらえるのは難しい。ある一面からとらえれば「賭け」に集中することで現実の世界から逃避できるからだともいえる。現実逃避は「自己慰安」ともいえるものだ。我々が音楽を聴いたり、夜散歩しながら夜空の星々を眺めたりすることとどこか共通する世界があるのではないのだろうか。

 この法律は法によって刑罰を科せられる非行としての「罪」(共同体的禁制)というよりも、悪事に対する神仏による“こらしめ”としての「罰」(共同体的黙契あるいは個人的倫理観)にちかい性格が強いように感じる。いままで何度となくやっていた賭け麻雀で黒川を密告した新聞記者が単なるバカかあるいは正義感からなのかはしらない。しかし、世間一般に攻撃されていることは特権的な地位にある特別扱いされた黒川だからといった性格が強いようにおもわれる。

 黒川をめぐる今回のドタバタ劇は「法」(共同性)の問題を個人の問題に帰着させて幕を引き、黒川の定年延長と恣意的法改正を切り離すことで安倍内閣の「支持率の低下」を食い止めようとしてあがいているお粗末劇のようにしかみえない。

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