• さようなら! 太陽も海も信ずるに足りない

「ほんとう」と「うそ」のレシピ~「現実」と「理念」の狭間で

 運転免許証の更新日が近づいた。高齢者の事故が多発する中、免許の更新には高齢者講習を受ける必要があるそうだ。面倒なので更新するかどうかを考えたが、身分証明にも使えるし、いろいろな面で便利なので、もう1回だけ更新することにした。これは免許制度が個人に要求するものだ。「現実」とはこのように、共同体や他人が個人に選択を迫る時に現れてくるものだ。

 親鸞の『歎異鈔』では修行の途中で人々を助けようとすることを聖道の慈悲(往相)といい、急いで仏(吉本隆明の比喩的言い方では生と死の間)になり現在に帰ってきて、人々を救うことを浄土の慈悲(還相)というらしい。聖道の慈悲では切りがなく人々を救い果せないが、浄土の慈悲ではすべての人々を救い果せると考えている。

第四条 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
一.慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐゝむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏していそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば念仏まふすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらうべきと云〻。

梅原猛『歎異鈔』( 唯円)講談社,2015

 この2つの視線を現代風に言い換えれば往相の視線では「現実に起きる個々(空間的関係性)の現象に対する決定的な解決はできないのだからその時々の契機で問題に対応すればいいのだ」という考えで、還相からの視線では「問題が消滅する究極の地平から時間的普遍性をとらえることができれば、理念的に『現実』の問題を超えていけるのだ」とする考えだと思う。

 「プーチンロシアがウクライナに侵攻した」ということは日本にいる我々には「現実」ではない。「現実」に直面しているウクライナの人々が戦闘を選択しても、逃げ出してもそれはそれぞれ個々人が必要に迫られて選択すればよい。また、ロシア軍の人々も、敵前逃亡してもいいし、仮病で前線から逃れてもかまわない。彼らも可能ならば、国家意思に縛られる必要はない。今、日本で「ロシアのウクライナ侵攻」を考えることができるとすれば「理念」として、どのようにとらえればいいのか、ということだけだ。「理念」としの究極の共同体とはなにか、といえば個人や社会を抑圧することのない体制を作ることだ。もしかすると体制自体もなくなることかもしれない。この究極のイメージから現在のウクライナ情況を考えるならば、国家を超えようとする「理念」をもたないロシアもウクライナも全くダメな「理念」の上で戦っていることになる。しかし、ウクライナは「選択を迫られた」ことによる根拠のあるダメな「理念」もっており、ロシアは「選択を迫った」ことによる根拠のないダメな「理念」をもっているといえそうだ。現段階で国家を超えようとする「理念」を持つならロシアが「NATOなどに参加せず中立ていてくれ」というのはいいとしても、もう一つの要求である「武力」による「非武装化」要求には問題がある。なぜなら現段階の国家とはエンゲルスが言うように国家が管理しうる「軍隊」を持つことだからだ。もし、「非武装化」を要求するなら、ロシア自体も「非武装化」の譲歩をしなければ論理的に矛盾に陥る。結局「非武装化」の要求は国家として認めないことを意味し、属国になれと言っているようなものだ。これは交渉ではなく強要だ。ではどのようにすればいいのか、観念的ではあるが、現在考えられる方法は国家を前面に出して交渉するのではなく、とりあえず相互に個人や社会に対して国を開いていくこと、さらには他国にも同様に国を開いていくという道を模索する以外、未来につなげる方法はないように思われる。

 シモーヌ・ヴェイユは「戦争に関する考察(1933年)」で次のように書いている。ほぼ90年前に書かれたものだが、今でも色褪せず鮮やかに「戦争」を論じている。

 現代の戦争は戦闘者の戦闘器具への隷属をその特徴としており、現代戦の真の主人公である軍備も、そのために働く人々と同様に、自らは戦わぬ者たちによって動かされるのである。この指導機関は自国の兵士を強制的に死に追いやる以外に敵に打ち勝つ手段をもたぬので、ある国家と他の国家との戦争はただちに国家軍事機関の自身の軍隊に対する戦いに変化する。そして戦争は最終的には国家諸機関と参謀本部との連合体と武器をもちうる年齢の壮丁全体との戦いの様相を呈することになる。…… 

 兵士は一人一人が自分の生命そのものを軍事装備の要請に犠牲にすることを強制され、その強制については国家権力による否応なしの処刑の威嚇がつねに彼らの頭上に付きまとっているのである。したがって戦争が防衛的であるか攻撃的であるかとか帝国主義であるか民族主義であるかということは、ほとんど重要ではなくなる。すべて戦争を行う国家は、敵がこの方法を用いる以上おなじくその方法を用いざるを得ない。…… 

 戦争は何よりもまず国内政治の事柄で、そのもっとも残酷なものであるのに、これを対外政策上の偶発事だと考えることである。といってもここで感傷的な考慮や人命に対する盲目的な尊敬が問題なのではない。ごく簡単なことを指摘しているのであって、要するに大量殺戮は抑圧のもっとも徹底的な形式だということである。兵士たちは死に身をさらすのではない。大量殺戮へと送りこまれるのである。抑圧機関は、一たびでき上れば破壊されるまで生きつづけるものだから、戦略行為を動かす任務をもつ機関を大衆の上に押しつけ、大衆に無理に行為集団の役をつとめさせる戦争というものは、たとえ革命家たちに指導されるものであっても、すべて反動の一要素とみなされなければならない。このような性格をもつ戦争の外的な影響圏は、国内にうち立てられた政治的な関係によって決定される。最高国家機関によって操られる武器はいかなる人間にも自由をもたらすことはできない。

橋本一明,渡辺一民 訳『シモーヌ・ヴェイユ著作集1~戦争と革命への省察』春秋社,1968

 簡単に言えば「戦争は自国民を抑圧し、自国民を殺す」ことだといっている。管理者や指導者が他国の市民を殺すことでもあるが、同時に自国の市民を殺すことだ。だから、ロシア、ウクライナどちらの市民にも勝者などない。両国の市民がともに敗者である。

 欧米型の宗教・法・制度・国家の本質概念はヘーゲルが言っているように共同性の観念にすぎない。それをあたかも実体のように考え個人や実社会の人間関係を抑圧(疎外)しているのだ。どうしても、共同性の世界がないと個人や実社会の人間関係がスムーズに動かない場合にだけ、共同性が必要になる。このように考えると、ロシアや中国・米国その他核兵器を保有する国の指導者や安倍元首相・橋下なにがしのように核兵器を共有あるいは所有しようなどという考えは「非現実」的恐怖感から国家統制を強めようとすることでしかない。さらに言えば、「核の脅し」をかけるロシアは他の核保有国と同じように「力こそ正義」と考えている。安倍や橋下の考えは同根の基礎をもっている。これを認めることは結局すべての国が核保有国になることを容認することになる。この呪縛は国家を基礎にすえた理念を捨てがたく持つことによっている。この問題の解決には国家の理念を少しずつ弱めていく以外の方法はない。憲法の「戦争放棄」はこの視点から最も未来性のあるものになっている。「力」に「力」で対峙するチキンゲームは結果として何も生みださない。言い換えれば、チキンゲームはすべての理念を超えていこうとする人間の未来性を抑圧し圧殺することを意味する。

 個人や家族、経済は国家を超えようとしているにもかかわらず、国家は個人や家族、経済をナショナリズムの理念で縛りつけ「力」で対峙しあっている。このような矛盾が表面化してきているのが「ロシアのウクライナ侵攻」だ。

 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の最後の部分に、国家間ではないが宗教間の違いでどちらが「ほんとう」なのか考えている部分がある。親鸞とは「ほんとうのこと」に対する視点が全く逆になる(未来から現在を見ることと現在から未来を見ること)が、一考に値する考えだと思う。

「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももし、おまへがほんたうに勉強して、實驗でちやんとほんたうの考へと、うその考へとを分けてしまへば、その實驗の方法さへきまれば、もう信仰も化學と同じやうになる。けれども、ね、ちよつとこの本をごらん。いいかい。これは地理と歴史の辭典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ。紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。

  だからこの頁一つが一册の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本當だ。さがすと證據もぞくぞくと出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。

 紀元前一千年。だいぶ地理も歴史も變つてるだらう。このときには斯うなのだ。變な顏してはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだつて考へだつて、天の川だつて汽車だつて歴史だつて、たださう感じてゐるだけなんだから、そらごらん、ぼくといつしよにすこしこころもちをしづかにしてごらん。いいか。」

  そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。

  するといきなりジヨバンニは自分といふものがじぶんの考へといふものが、汽車やその學者や天の川やみんないつしよにぽかつと光つて、しいんとなくなつてぽかつとともつてまたなくなつて、そしてその一つがぽかつとともるとあらゆる廣い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなはり、すつと消えるともうがらんとしたただもうそれつきりになつてしまふのを見ました。

  だんだんそれが早くなつて、まもなくすつかりもとのとほりになりました。

「さあいいか。だからおまへの實驗はこのきれぎれの考へのはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレアデスが見える。おまへはあのプレアデスの鎖を解かなければならない。」

  そのときまつくらな地平線の向うから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ、汽車の中はすつかり明るくなりました。

  そしてのろしは高くそらにかかつて光りつづけました。

 「ああマジエランの星雲だ。さあもうきつと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」

青空文庫版 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より

 

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