N:
フラワーフェスティバルのパレード、去年は公園前で、花の山車の展示だけでしたが、今年はパレードが行われました。見てきました。
瘋癲老人:
元気そうですね。病気の具合はどうですか
N:
病院で薬をもらっていますので、なんとかなっています。チェンマイラム病院の常連になってしまいました。
瘋癲老人:
私は逆流性食道炎、便秘、脊柱管狭窄症手術の後遺症、高コレステロール血症の診察と薬で月1、2回は病院通いです。
N:
私の場合は、高血圧、脊椎管狭窄、糖尿、痛風、前立腺肥大、膀胱炎、で薬を9種類くらい貰っています。(今は少し減りました)アトピーと花粉症は、こちらでは出ないので助かっています。最近、飛蚊症の症状が出るのと、身体のバランスが非常に悪くなっているのが、気になります。
先だっては、道で、何の問題もないような所のちょっとした出っ張りに躓いて、ころんで、もろに顔面から突っ込んでしまいました。それでも、必死に防御しようとしたらしく、膝、肘、手首をしこたま打ち付けてしまいました。傍にいたタイ人に助け起こされました。もう一人で道を歩くこともできなくなったかと、とっても落ち込みました。
歌手なんかでも、よく喉をやられて引退します。勿論、長年酷使してきたからでしょうが、歌手にとっては致命的です。「赤い鳥」のヴォーカルで、その後、「ハイファイセット」、ソロ活動を続けていた、山本潤子が最近見なくなりました。「500マイルも離れて」は逸品です。ちょっと調べてみました。1949年12月30日生まれで同い年でした。
2014年5月に行なわれた名古屋コンサートを最後に「喉の不調」を理由に無期限の休養に入りました。喉の状態はポリープやガンなどでは無く、全体的な体調が思わしくなかったそうです。意外にも大変な愛煙家だったと言います。同じように吉田拓郎も去年で歌手活動を引退しました。
吉本隆明のヨブ記じゃないですが、神様は一番大事なものから奪っていくと思っています。今、私の楽しみは、散歩とyoutubeを見ることですから、足と目が狙われると思っています。
瘋癲老人:
そうですね。年齢を重ねることは身体性としてみればいかんともしがたい病気(老化現象)の一部なのかもしれません。「ヨブ記」の話がでたので、「旧約聖書ヨブ記」(岩波文庫,青801.4,2018年)を再度読んでみました。
ヤハウェ(神)は敵対者(悪魔)と「災いをもたらしても信仰が続くか」という賭けを行い、神は悪魔に「さあ、彼の持物をみなお前の手にまかせよう。ただ彼の身にお前の手をのばしてはいけない」といって悪魔にヨブに対して試練を与えることを許しました。悪魔は「神を畏れ、悪を遠ざけた」敬虔な信仰者ヨブに対し盗賊や神の火(雷)によって使用人を殺し、牛・羊を奪い去り、さらに大風を起こして息子や息女を死に至らしめました。それでもヨブは神への信仰を捨てませんでした。悪魔は再び神に「皮の奥に皮ありですよ。人は自分の生命のためなら、持物をみんな差し出すのです。だがお待ちなさい。あなたの手をのばして、彼の骨と肉にふれてごらんなさい。彼があなたの顔に向かって呪わないではすみますまい」。神は悪魔に「さあ、彼をお前の手にまかせよう。ただ彼の生命は助けてやれ」といって神はヨブに対する試練を再び許しました。悪魔は「ヨブの足の裏から頭の天辺まで悪い腫物」を生じさせました。彼の妻が彼に「あなたはまだ自分を全きものにしているのですか。神を呪って死んだらよいのに」いっても信仰を捨てないヨブに妻は愛想をつかして出ていってしまいました。彼の友人たちが来て慰めたり戒めたりするのですが、ヨブは友人たちに抗弁し、神に対しても「自分は正しいことしており、神に罰を受けるようなことはしていない」いわれのないこの受難に対して神に抗弁し続けます。ヨブの抗弁に対し神は次のように言います。
この地上に大地を据えたのはわたしだ。朝日や曙に役割を指示したのもわたしだ。おまえは海の私の湧き出るところまて行き着き、深い縁を巡ったことがあるか。死の門をつくったのもわたしだし、死の闇の門を見たのもわたしだ。光がどこにあるかを指し示せるのもわたしだ。雪がどこから降ってくるか、霰がどこから落ちてくるかを知っているし、それをさせているのもわたしだ。風がどの道を通って吹くのか豪雨どういう水路をつくるか、稲妻がどうやって落ちてくるのかもわたしのなせる業だ。すばるとかオリオンとか銀河をつくったのもわたしだ。洪水をおこすのも、鳥たちを囀らせるのもわたしだ。おまえはそういうことができるか。できないだろう。動物から植物まで全部全能者であるじぶんがこしらえたのだ。おまえは全能者と言い争うが、引き下がる気があるのか。神を責め立てる者よ、答えるがいい。
吉本隆明『ほんとの考え・うその考え』春秋社,1997
ヨブは神の言葉に恐れ入って神の偉大さを認め、自分を否定し悔い改めました。これにより神はヨブの終わりをその始め以上に祝福され、彼は羊一万四千頭と駱駝六千頭と牛千軛と雌驢馬千頭とを与えられ、また彼に七人の男の子と三人の女の子が与えられました。
「神様は一番大事なものから奪っていく」はどこに書かれているか、話されているかは知りませんが、ヨブの神への抗弁の一部と考えれば納得いきます。「信心のない者の考え方をとれば、『ヨブ記』における神や悪魔によって為されたヨブの「受難」はたんなる自然そのものではないのか」というところに吉本の視点はあります。自然が人間に与える影響は人間が理論的に把握でき、予測できる領域では必然性といえますが、把握できない領域では偶然性でしかないように思います。ヨブの遭遇した「受難」はこの偶然性でしかないのではないでしょうか。吉本はヨブがこの自然からの「受難」に対し人間の「倫理」(いいことばかりしているのになぜ罰を受けるのか)で対抗していると考えているように思われます。そして神と「倫理」の間にヨブの代弁者になってくれる「仲保者」(イエス・キリスト?)を求めています。自然は個人の「倫理」にはお構いなしに誰にでも訪れる可能性があり、避けられないものである場合には個人に絶望を与えます。その時、絶望に立った人間は苦境を超えていく場所を求めることになります。そして、大概の場合その場所は偶然にか必然にか目の前に出現することになるように思います。
私も仕事や生き方でいきづまってどうしようもない場面が幾たびもありました。しかし、いつもその場面はギリギリのところで切り抜けられたと思っています。これがヨブの「祝福」にあたるのかもしれません。私は信心がないので、単に「ホッ」としたにすぎませんが、どうにか現在に至っています。
我々の老化は誕生から死に至る経緯の中で自然そのものですが、病院通いや薬は「老化への抗弁」の表現で「死」への流れをせき止めることです。この抗弁そのものが生きることの意味なのかもしれません。我々個々人の感性は常に現状を超えていこうとする意識・無意識に支えられています。