金沢旅行~21世紀美術館『雲を測る男』

 久しぶりにつれあいとの旅行で、金沢に行った。ついた当日は雷雨や雹が降り荒れた1日だった。2日目は晴天で、つれあいが21世紀美術館が見たいというので、ホテルから歩いていくことにした。四高記念公園、広坂緑地を越え10分ほどで美術館についた。開館10分前に着いたが、もう100人以上が並んでいた。特に白人系の人たちが多く、芸術は豊かさの指標なのかもしれないと、ふと理由もなく思った。
 いくつかの展示に興味をもったが、ヤン・ファーブルの作品『雲を測る男』に添えられた解説文に最も興味がわいた。

 本作品は、『終身犯』(1961年 米国)という映画から着想を得て制作されました。この映画は、監獄に入れられた主人公が独房で小鳥を飼い、鳥類学者となった実話に基づいています。映画の終わりで研究の自由を剥奪された主人公が、「今後は何をして過ごすのか」と問われ、「雲でも測って過ごすさ」と答えましたが、作品のタイトルはその台詞に由来しています。(以下略)

 この独房と個人の関係性はちょうど埴谷雄高が戦前思想犯として独房に入れられ、その中でカントやドストエフスキーの本を読み「革命家は行動を起こさなければいけないという観念論ではなく、未来のビジョンを示せばよいということを示したコペルニクス的回転」(吉本隆明)に至った経緯に似ている。マルクスが言うように人は自然を価値化(対象化)することで疎外(自己疎外)され意識が生まれた(あるいは逆に意識が生まれたから自然を疎外した)。同様にして独房に入れられると、人の行動は疎外され、意識の自由を求めるほかないようにおもわれる。このような環境では、現実的に見える行動は観念的であり、観念的に見える意識が現実的になるという一見パラドックスにみえる現象が人の到達しうる究極的な現実といえなくもない。すべての現実を受け入れざるを得ないとき、人は現実の世界の不自由と引き換えに観念の世界の自由を獲得する。

 この「終身犯」も独房で行動を疎外され、さらに鳥類学の研究の道も断たれてもなお、観念の世界で自由に生きる場所を見出すため、独房にわずかに穿たれた窓を通して「雲を測る」という現実をつかみとることができると考えたのだろう。

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