TVドラマにみる共同体と自立

 最近TVドラマを見て、感じることだが、共同体(会社や社会あるいは国家、宗教など)と個人との対立や孤立から自立して生きようとする姿が共通してみられるようにおもう。例えば「相棒」や「ドクターX」、「科捜研の女」そして「同期のさくら」など挙げればきりがない。なぜこのような現象が起きているのだろうか。
 我々は日常的に意識する、しないにかかわらず共同体(社会)からの抑圧に晒されている。このことは、よく引用される漱石の『草枕』の冒頭部分にうまく表現されている。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 このような状況の中で我々庶民のとりうる対応について漱石は次のように続ける。

 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りょうどなりにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

 ここで漱石は共同体(社会)から逃れる場所はどこにもない、自己の観念の世界(詩や画)で超えていくほか方法はないといっているように思われる。
 当然ながら個人のいる場所が違うから超えていくための観念の表現方法もそれぞれ異なってくる。TVドラマの例でみると、「相棒」の警察組織(共同体)内では「共同体の規律」を守ることが重要だとされており、主人公の杉下右京は警察庁キャリアでありながら、彼の資質から「真実」を知りたい、という彼の理念(観念)を追求するあまり、いつも「共同体の利益」と齟齬(智に働けば角が立つ)が生じてしまう。そのため組織から切り捨てられそうになるが、彼の明晰な頭脳で「真実の追求」が「共同体の利益」につながるという理屈でぎりぎり切り抜けている。
 「科捜研の女」は京都府警の組織の中で犯罪を「科学・技術」的に立証する科捜研という特殊な共同体に所属している。榊マリコの事実を立証たいという個人的な意思(観念)は科捜研という仕事環境の中ではそれほど相反するものではない。だから組織から若干はみ出す(智に働けば角が立つ)ことはあても、相棒ほどの対立は見られない。
 「ドクターX」の大門未知子は「病院」という組織の外にいて、フリーランスという立場で、組織の統制からいつもはみ出して(智に働けば角が立つ)しまうが「私失敗しないので」という理念(観念)で自己の持つ医学に関する圧倒的な知識や手術に関する秀逸な技術を駆使して共同体の抑圧を乗り越えていく。抑圧する共同体も彼女の才能(観念)を認めざるを得ず、結果として医療現場で活躍することになる。
 「同期のさくら」の北野サクラは離島で生まれ育ち、そこで育まれた素直に表現するという性格により会社組織において自己の異和(離島の共同体の幻想を含む自己の観念)感を率直に表現(意地を通せば窮屈だ)してしまうことになり、どんどん問題児扱いとなり、出向さらには解雇まで至ってしまう。
 このように、自己と共同体の対立は元来本質的なものである。必ず共同体には規律(法律)があり、タブーがある。この規律やタブーは個人の観念に対するものである。このため、共同体に晒される個人は、「共同体に反する観念を持てば共同体から外されるのではないか」という恐怖感をもつことになる。この恐怖感を克服するには共同体に対峙する明確な自己の観念が必要であり、共同体に含まれながら、自己の観念は自立した世界をもつという矛盾した世界を内包する必要があるといえる。
 我々は社会の中で何らかの共同体に属し、その中で経済的にも観念的にも生きている。共同体にタブーや強制があるのは共同体の外側と共同体の内側を区別し共同体を維持するためで、決して共同体のなかの個人を守るためではない。極端な例をあげれば、戦争による死者は共同体の犠牲者であることはあきらかで、シモーヌ・ヴェイユの言を借りれば「戦争は自国民を殺すことだ。」ということになる。どんな証拠をあげても誰が戦争を起こしたかを調べても、国家という共同体が戦争をし、自国民を殺したことにはかわりはない。
 小は仲間内、大は国家まであらゆる共同体の観念は吉本流にいえば幻想である。もし、最低限度の共同体を必要となるとしたら、ゆるやかな共同体、いつでも抜けることができて、いつでも参加できる共同体、境目が限りなく薄くなった共同体そしてその構成員は共同体の決定事項をいつでも拒否できる権利(拒否権)をもつ開かれた共同体であることが理想である。しかし抑圧する共同体が存在する現在において、我々がなしうることは杉下右京や大門未知子、榊マリコのように智慧(特殊な才能)で自立しながらぎりぎりのところで抑圧をすり抜けていくか、抑圧に従って自己を押し殺し従順に生きていくか、北野サクラのように共同体に対峙して自壊していくか、のいずれかの方法しかないように思われる。
 どの道を選ぼうとも個々の人間の自由であるのは当然だが、これらのドラマを我々が痛快に思ったり共感したりするのは今現実に直面していている問題とどこかで通底しているからであり、無意識的あるいは意識的にか「自己の観念」がどこかで「共同体の幻想」からの疎外(矛盾)を実感しているからに違いない。
 現在という時代は「共同の幻想」から「個人の観念」が自立していく過渡期にあるのかもしれない。

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