Nとの対話~新年のあいさつ

瘋癲老人:

2020年になりました。もうすぐ70歳になります。人生も残りわずかです。Nと出会ってもう50年以上になります。あっという間ですね。

N:

サワディピーマイ
新年おめでとうございます。チェンマイでは午前0時に、花火が上がり、
部屋から見えます。去年の方が賑やかでした。
午後9時頃、蕎麦を茹でて食べた後、特にやることもなく起きていました。
そのあと、ブータンでもらったリキュールを飲みました。ポリープの件があったので、酒は止めていました。(医者から言われたわけではなく、自主的です)おととしの9月以来だったので、すぐに効いてきました。
今朝は、久しぶりに二日酔いです。あなたのメール見ました。本当に「あっという間」です。もうすぐということは、団塊の世代の最後の70台ですね。
寝ながらYouTubeで歌を聞いています。吉田拓郎の歌に、「欲しいものはなんですか」というのがあります。60年代に岡林信康は、「私たちの望むものは」と歌いました。
私たちの欲しかったものは、何だったんでしょうか。


流  星       吉田拓郎

たとえば僕が まちがっていても正直だった 悲しさがあるから
AhAhAh Wow Wow Wow流れて行く
静けさにまさる 強さは無くて言葉の中では何を 待てばいい
AhAhAh Wow Wow Wow流れて行く

たしかな事など 何も無くただひたすらに 君が好き
夢はまぶしく 木もれ陽透かす少女の黒髪 もどかしく

AhAhAh 君の欲しいものは何ですか君の欲しいものは何ですか

さりげない日々に つまずいた僕は星を数える 男になったよ
AhAhAh Wow Wow Wow流れて行く
遠い人からの 誘いはあでやかでだけど訪ねさまよう風にも 乗り遅れ
AhAhAh Wow Wow Wow流れて行く

心をどこか 忘れものただそれだけで つまはじき
幸福だとは 言わないが不幸ぶるのは がらじゃない

AhAhAh 君の欲しいものは何ですか君の欲しいものは何ですか

流れる星は 今がきれいでただそれだけに 悲しくて
流れる星は かすかに消える思い出なんか 残さないで

AhAhAh 君の欲しいものは何ですか
Wow Wow Wow 僕の欲しかったものは何ですか


瘋癲老人:

そうですね。今考えてみると、当時はN、SやM、H、K、KN、Yなどは私からみれば大人だったように思います。みんなしっかりと自立しているように思われました。私はといえば何も知らない田舎者でよちよち歩きの子どもでした。当時はみんなと同じように精神的に2本の足で立ちあがて歩くことが「欲しかった」もののように思います。拓郎の「流星」のように自分自身がよくわからないままみんなについていってたように思います。(今でもわかりませんが、わかりえないということがわかり、ついていける人などないことがわかったように思います。)

N:

吉田拓郎の歌は「流星」って言うんですね。
youtubeの「101st 02.10.30  Takuro Yoshida」というのを、聞き流していて気にとまりました。同じyoutubeに「吉田拓郎「流星」の誕生秘話!年月が経てば経つほど評価が上がると坂崎幸之助が絶賛」というのに、作ったいきさつが語られていました。
当然ですが、今私たちが思っているような普遍性はなく、ごく個人的な理由のようですが、自己表出と指示表出で、意味が広がって行ったんですね。
おもしろいな、と思いました。

瘋癲老人:

おもしろいですね。漱石や龍之介もそうですけれど、拓郎自身が意識しようとしまいと、個人的理由が言葉や音楽を介して表出した時、当時あるいは現在の人々の普遍性に触れていたということでしょうね。ヘーゲル的にいえば、表出するということは自己の内部から生まれながら外部に押し出(外化)され自己に対峙することです。これは自己矛盾であり、疎外ということになります。この外化が受け手側と対峙することで、もう一段疎外され、受け手側の内部に受入れられた時、表現者と受け手の間の共通性を獲得したことになります。そして、表現者の「こころ」の奥深いところが疎外されていればいるほど、一般(多く)の受け手に共感を呼び普遍性になる、ということなんでしょうね。だから、表現者と受け手とは異なる表層の「おもひ」を抱きながら深層の「こころ」は一致しているという奇妙な関係が成立するのでしょうね。