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「テセウスの船」の問いかけるもの

 現在放映されているTVドラマに「テセウスの船」というものがある。ドラマの内容には興味がなかったが、題名に引き寄せられた。以前にも宇宙論の本を読んでいるとき出会った「ウロボロスの蛇」というエジプト神話に興味をもった。わからないことに出会うと知りたくなるのが人情というものだろう。
 ウィキペディアには次のように書かれてあった。

 “テセウスの船”はパラドックスの1つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体の全ての構成要素が置き換えられたとき、基本的に同じであると言える(同一性=アイデンティティ)のか、という問題である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/テセウスの船

 もともとは1~2世紀の自然哲学者プルタコスが禅問答のような次の問題を提起したのが始まりらしい。

 ギリシャ神話のテセウスがアテネの若者と共にクレタ島から帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代(紀元前317~307年)にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていって、全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのか

https://ja.wikipedia.org/wiki/テセウスの船

 さらに、この問題はパラドクスとして次ぎのような問題へ発展したという。

 置き換えられた古い部品を集めて何とか別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船なのか

https://ja.wikipedia.org/wiki/テセウスの船

 この問題を生命の観点から迫った物理学者がいた。シュレディンガーである。彼は『生命とは何か』(岩波文庫)で次のように述べている。

 生きている生物体はどのようにして崩壊するのを免れているのでしょうか?わかりきった答をするなら、ものを食べたり、飲んだり、呼吸をしたり、(植物の場合には)同化作用をすることによって、と答えられます。学術上の言葉は物質代謝(メタボリズム)といいます。

シュレディンガー『生命とは何か』岩波書店,2008

 このことを物理的な問題として「エントロピー」という熱力学的概念を使って説明している。

 自然界で進行しているありとあらゆることは、世界の中のそれが進行している部分のエントロピーが増大していることを意味しています。したがって生きている生物体は絶えずそのエントロピーを増大しています。そしてそのようにして、死の状態を意味するエントロピー最大という危険な状態に近づいてゆく傾向があります。生物がそのような状態にならないようにする、すなわち生きているための唯一の方法は、周囲の環境から負エントロピーを絶えずとり入れることです。

シュレディンガー『生命とは何か』岩波書店,2008

すなわち生命もまた「テセウスの船」であるということだ。
 NHKBS1の「最後の講義~生物学者福島伸一」でも類似したことをいっている。

 1年前の私と今日の私とはほぼ別人になっている。物質レベルではほぼ入れ替わっている。自分の身体は固体だと思っているけれども流体なわけです。

福島伸一「最後の講義~生物学者福島伸一」NHKBS1,2018

 福島は「エントロピー増大の法則」に反し入と出のエントロピーをある一定の範囲に保つことを「動的平衡」といっているわけだ。さらに「動的平衡」を維持しているものを「記憶の構造」から説明している。

 どんどん入れ替わっていたらいろんなものが失われてしまうんじゃないか。記憶というのは脳の中にビデオテープのように保存されていてそれが読みだされているのではなくて、ニューロン、神経細胞の回路網として保存されていてそこに電気が通るとある記憶がよみがえる。

福島伸一「最後の講義~生物学者福島伸一」NHKBS1,2018

 この神経細胞の回路網とはもう少し一般化していってしまえば、「平衡」を維持しているのは入と出の「関係性」であるといっているのである。「テセウスの船」の問題で言えば「朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていって、全部の部品が置き換えられた」わけだが、置き換えられた船の素材である木材相互の関係性(空間性)は変っていないのだから「テセウスの船」といえる。しかし歴史性(時間性)の視点からは「新たな木材に(すべて)置き換えられた」船は明らかに「テセウスの船」ではない。結局「船」を重視するか「テセウス」を重視するかという観点の相違であり、どちらの船も「テセウスの船」といえることになる。
「テセウスの船」の論理を観念の世界に拡張したらどうなるのだろうか。埴谷雄高は観念の世界において同一性にたいして独自の見解をもっていた。

 “自同律の不快”というのは絶えず満たされない魂を持っていて、満たされよう、満たされようと思って絶えず満たされる方向へ向かっていく。これがぼくの宇宙の原理なんです。その満たされざる魂を持っているのが宇宙の原理だけどね、ぼくもある意味でヘーゲル的なんですね。

埴谷雄高、立花隆『無限の相のもとに』平凡社,1997

 彼の言葉で「自同律の不快」は有名だが、「満たされざる魂」があるから「“私は私である”という自同律(同一性)に不快」を感じるのだ。この魂は「虚体」であり、実体の世界において成立するような、ある時間の空間的断面(関係性)を切り取る「動的平衡」は成立しないといっているように思える。まさに「動的非平衡」こそが観念の本質である。

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