• さようなら! 太陽も海も信ずるに足りない

リスク・コミュニケーション

 ほぼ3ヶ月ぶりに書き始める。時として書こうと意図したときもあったが、ポテンシャルが低く、書ける状態ではなかった。

 最近、NHKスペシャルやサイエンスゼロなどの製作ディレクターをやってきた人と話をする機会に出会った。この人は「環境ホルモン」という言葉を初めて使った人だそうで、若くてバリバリやっているかんじの人だ。彼は、「リスクコミュニケーション」という言葉を使って、専門バカで表現力の乏しい研究者と無知でバカな大衆の間に入って、利口なTV局スタッフが現在起きている事象(リスク)をわかりやすく伝えることが重要だとしているようだ。(こんなことは直接いっていないが、私流に翻訳するとこうなる。)
ああなるほどなとNHKスペシャルの内容を反芻して、面白さと胡散臭さの両面があることがなんとなくわかったような気がした。
 例えば、彼が製作したNHKスペシャルの一部で、「ミッドウェイ島のアホウドリの雛の死骸のお腹のあたりに数個のプラスチックがあって、漂着したごみを食べて死んだ」ということを「雛の死」→「ごみ」→「人間」という連関の中で捉えて、「ごみの海洋投棄をやめよう」と訴えかけているようだ。
これを見れば、「矢が刺さった鴨」や「釣り針の引っかかったタマちゃん」で大騒ぎする心情が一般化している日本や先進国レベルでは「かわいそうだ」ということで、反響は大きそうだが、アジアやアフリカの諸国では、「うまそうなアホウドリが一羽死んだ」とか、「捕まえやすそうな鴨がいるぞ」とか、「アザラシの皮が手に入りそうだ」とかになりそうだ。ということは、「リスクコミュニケーション」は絶対的な価値基準にはならないということで、受け入れられるレベルでしか受け入れられないわけで、結局、バカな大衆のレベルと同じレベルの放送内容ということになるわけだ。
 別の観点から考えてみよう。「プラスチックを飲み込んで死んだ」アホウドリと「細菌に感染して死んだ」アホウドリがあったとして、一体何が違うのだろうか。「プラスチックを飲み込んで死んだ」アホウドリはかわいそうだが、「細菌で死んだ」アホウドリは運がわるかったとでもいうのだろうか。人間が自然の一部で、人間は自然を人間化するといっても人間化された自然も所詮自然の一プロセスに過ぎないといえそうで、そうならば、「プラスチック」も「細菌」も同列に考えなくてはならない。そして、アホウドリがかわいそうならどちらにも対策が必要となるだろう。我々は人為的影響にこだわりすぎて自然全体を考えることをつい忘れがちになるが、地球規模の環境問題が取りざたされる中、こういった観点の重要性が増しているように思える。
きれいな映像と、人為的影響としての「プラスチックによる死」の対比が「かわいそうだ」という情感を増幅することまで計算されたこのようなビデオの背後に到達するには、本質的には、画像からの直感によるのではなく、論理的な遡及によってしかたどりつけないものになっている。
 そう考えると、直感的な「かわいそうだ」とか「たいへんだ」という感情をTVで感じたときはちょっと眉に唾をつけたほうがいいということなのかもしれない。これが映像のリスク・コミュニケーションのリスクを乗り越える方法とも言える。

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