• さようなら! 太陽も海も信ずるに足りない

吉本隆明『戦争と平和』を読む

 吉本隆明の最新刊『戦争と平和』が図書館で借りることができた。吉本の友人である川端要壽が公演をまとめたもので、最後の1/3は川端の吉本 との付き合 いの中から、「愛と怒りと反逆」の部分を紹介している。このような観点からの吉本の紹介を目にするのは初めてで、興味深く、吉本の「開かれたこころ」の一 部を見たような気にさせる。あとがきも川端が書いていて、「あとがきは吉本が書くべきところですが、彼は大腸癌の手術を受け(退院しておりますが)、まだ 文章を書けるまでは回復していないので、私が代筆のような形になりました。」としている。このあとがきで、吉本が大腸癌で手術を受けたことをはじめて知っ た。
 内容は『戦争論(上)(下)』や『超資本主義論』で述べられていることの講演版といったところだ。吉本が出た府立化工(現都立化学工業高等学校)での1995年3月10日の講演で比較的わかりやすくなっている。
 「戦争」については、「要するに国と国とが戦いの状態に入って、両方の国の、あるいは複数の国の民衆が兵士となって戦いの先頭に立つ。そしてどちらかが勝ち、どちらかが負けるというのが、誰でもわかる一般的な考え方」から出発して、この一般的な考え方を「もっととことんまで追い詰めていこうと考えた人たち」マルクス、レーニンからシモーヌ・ヴェイユまで引用して最後に、「戦争というのは起こりえるんだという考え方、それから戦争というのはやることがあり得るんだという考え方を取っている限り、いずれにしろ戦争をしたら自分の国は負けると考えようと勝とうと考えようと、それは同じことをやって、どちらかの民衆がより多く死ぬということを意味するので、ちっとも変わらないじゃないかということが、たぶん戦争ということについてのいちばんどん詰まりの考え方」としている。では、それ以上の考え方としてヴェイユが追い詰めたことに対し吉本は「精神労働(参謀本部など)と肉体労働(兵士など)の違いがある限り、絶対に戦争を命令するやつと命を的に戦うやつの区別はなくならないという絶望感を超える方法はあるのか」と自問して、「端的に言えば国家というものをなくしてしまえば国家間戦争というのはなくなってしまいますから、なくしちゃえばいいわけですけれども、ある限りはどうしたらいいのかといえば」、「要するに国民主権の直接行使(過半数の署名を得て直接の無記名投票をすること)によって政府を代えることができるという条項を獲得することが戦争をなくす唯一の入り 口になるんじゃないか」と考えている。
 一方、「平和」について、吉本は「平和については各人の生活状態、心の状態、それからそれを取り巻いている社会の状態というものの中に、それぞれ感じている平和というものを護っていく以外、あるいは実現していく以外、平和というものを一般論として定義することは非常に難しいし、極端に悲観的に考えれば、トルストイのように生きている限りはそれはないといふうに考えざるを得ないところまで、平和というものは 個々別々の人々の生の中にしかないということになってしまう。」と考え、こういった「戦争と平和」の考え方の上に立って、現状の分析を行っている。
 現在の政府(この講演当時は村山内閣)は自衛隊は合憲だとして、海外は派遣をやている。これは撤回することはできない。憲法九条はもう解釈によれば無効で あると言っていることになる。この状態を超えることのできる手段は「国民主権を直接行使するためにリコール権というものが存在するという条項ができれば」 よいということになる。
この「リコール権」を国際間で考えると、「国家を開いていくこと」で、国内的には「政府は一般大衆の利害を主体に考えな いと、いつでもリコールされる」ということを意味している。「国家が閉じてしまって、国家の自由に軍隊を動かしたりすれば、いつだって平和は脅かされると いうことがあるわけですけれども、国家が開かれているとその開かれたところから一般大衆のリコール権というのが政府に届きますから、それを阻止することができる。」
 しかし、「政治というのは政府が代わればまたちがう政策が出てくるわけですけども、究極的に言いますと、どんなふうな政府がでてきましても」、「なかなかリコール権というものを獲得することができない。」が「希望に類することがただ一つある」として、「消費の70~80%が消費につかわれているという状態」になっているアメリカ、欧州共同体や日本のような先進国では、「消費につわれている部分も、家賃とか光熱費とかいう毎月要るという消費と、つかわなければつかわなくてもいいという消費」の部分があって、「皆さんの中で選んで使える消費の部分が所得のうち半分以上を占めている。」 「今月は節約だから旅行に行くのはやめようとか、映画に行くのはやめようとか洋服を買うのをやめようとかいうふうに、自由にやめたりやめなかったりできる 額が半分の半分以上、四分の一から二分の一を占めている。」「皆さんが一斉に一年の半分ないし一年間我慢して選んでつかったり、遊ぶためにつかっているの をやめようじゃないかということをやったら、それで政府は潰れてしまいます。経済的規模が四分の三から二分の一のところにおちてしまいますと、どんな政府 ができても潰れてしまいます。」ですから、「これは潜在的にリコール権を持っていることを意味します。」すなわち、「政治的なリコール権というのは憲法なら憲法に書き込まなければいけないですけれども、経済的なリコール権ならば、先進国は国民大衆の中にそれはあるんだということを意味しているんです。」
 つまり、「平和というものの主導権が潜在的に皆さんの経済生活の中にもうすでに握られているということを意味します。」「ルワンダへの海外派兵は『よけいなことをするな』といって発砲で戦争をしかけられたら、やっぱり発砲で打ち返す以外ないわけ」だから、「悪いボランティ アなんです」。でも「いいボランティア」もある。例えば阪神大震災時の「救援ボランティアについて動きがよかった。」「非常にそれが目立った。あれはなぜかといいますと、経済主体が個々の人の中に握られているということが根本的な問題なんです。」「つまり、”これこそが平和”ということが個々人の個々の生活の中にありながら、しかしもしある急な場面が来た時にどうするんだという場合、それはボランティア活動ができるということの意味だとおもいます。」「つまり、生活主権がすでにあるために、いいボランティア権というのがすでに大衆の中に入ってきているといえるとおもいます。だから、いいボランティアという のは、いつでも行使できるという状態に皆さんはあるということは、経済統計上、明瞭にみえることであって、それは疑いない。」
 「現在の状態、つまり戦争と平和という問題を解ける最終のところというのは」「少なくともだんだん明瞭になりつつある。」そして、そうなったら、「生活権が同時にボラン ティア権になり、そして経済問題というのは等価交換価値論から一種の贈与価値論といいましょうか、そういうところに移行する」と考えている。

 吉本の思考は戦争と平和のとらえかたから始まり、戦争と平和の位相のズレを最終的に主権が政府(国家)から大衆へ移行することで、解消しようとしている。 すでに実際上経済的な主権は国民大衆に移行しているが、それは認識されておらず、潜在的になっているとしている。これを認識できれば、政府の実質上のリ コール権を大衆が手に入れたことになり、同時に国を開いていくことにもなる。そして、その先に残される問題として国家を開いていった時、先進国は発展途上国などに、国家として関与していくのではなく、個々人が関与するボランティアという形態の延長上に新たな贈与価値論として再構成されることになると見ている。いつもながら、すっきりした論理構成である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です